見出し画像

生存戦略的擬態

大人になってから、自分らしさとは何かについて悩む人は多い。
だから「自分探し」の旅だとか、「自己分析」の方法論だとか、はたまた占いで持って生まれた性質を調べてみたり、職業診断で向いていそうな仕事に当たりをつけてみたり。
とにかくみんな、自分のことなのに自分のことが一番わかっていないような気がしている。そして自分のことを分からないことに不安になり、何とかいち早く簡単でわかりやすい答えに辿り着こうとする。

しかし、遡って考えてみれば、なぜ自分を見失っているのだろうか。
オギャーと生まれた1歳になる前の状態の時から、われわれは自分を見失い始めているのだろうか。

最近の答えの一つとして出てきたのが、

「われわれは、戦略的に擬態して生きている」

というフレーズで、これがふわっと頭の中に浮かび上がった途端、妙に納得してしまった。

擬態とは何か。
わかりやすいイメージは、昆虫たちが外敵に襲われないようにするために、自分が生きている環境の植物ににた体に変化することだ。
葉っぱに擬態した昆虫は、飛び回る鳥にめざとく見つけられて食べられてしまう確率を減らすことができる。

人間も、生き残るために、擬態しているのではないだろうか。

例えば表情。例えば服装。例えば立ち居振る舞い、仕草、言葉遣い。

自分が存在する必要がある社会において、どうしたら生き残れるのかを考え、最も生き残れそうなものに擬態しながら生きている。

人間の場合は、周りから目立たないようにすることだけが擬態ではない。状況によっては目立たなければ生き残れないと気がつくと、何とかして周りから目立つ工夫をするだろう。それも擬態の一つと考えられる。

つまりここでいう人間的擬態は、本来の己の状態を無視し、環境に適した人間になりすますことを言う。

この人間的擬態をしている時間が長くなればななるほど、本来の自分には戻れなくなっていく可能性がある。家に帰ってリラックスすれば、まとまった休日に自分の好きなことをとことん楽しめば、擬態を解除して自分に戻れると人間は信じている。だから擬態の表皮のようにひっついているストレスというものを発散すべく、長期旅行に出掛けてみたり、休日の買い物三昧をしたり、美味しいレストランに行って堪能したり、お酒やタバコを愛する人もいるのだろう。

しかし経験上、擬態は、透明で、かつ墨汁のように染み込むのである。
奥深く染み込んだ擬態は、夏休みやお正月休暇というレベルの簡単な洗濯では取り除けないし、専門のクリーニング店で有料オプション染み抜きコースをお願いするがごとく、高額な特別ツアーに一度申し込んだりカウンセリングをちょっと試してみたりするぐらいでは、完璧には消し去れないシミになっていることが多い。

しかし擬態は、先に述べたように「生存戦略的」なのである。
擬態が上手にできなければ、自分探しの旅が終わる前に淘汰されてしまうかもしれない。
社会活動を行う限り、このバランスは非常に難しい。

生存戦略的擬態をうまく使いこなしながら、自分自身を保つという、そんな綱渡りパフォーマーのようなことができる人が、一体どれくらいいるのだろう。

私は生存戦略的擬態を解除し、いや、解除したいと思い、今もまだ解除過程進行中なのだけれど、生存戦略的擬態を完全に放棄してしまったら、一体私は生きていけるのだろうかという不安もよぎる。

それでももう、阿りたくはない。
それがいかに、人生を蝕み、つまらなくするのかを知っているから。

自ら積極的に行動したことだけが、自分を作っていく。
まさに、自分が歩いた後ろに道ができて行くという高村光太郎の『道程』である。

今日の覚書

資本主義は人間の集団を形成し、人がたくさん集まれば集まるほど好ましい状況であるという場合が多くなる。
人間がいっぱい密集しているのが苦手な私は、どうやって資本主義が牛耳る現代社会で生き残っていったらいいのだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?