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美意識の原点

なぜかモヤモヤして好きになれないもの、
逆にすんなりと受け入れられるもの、
自分の中でそれらに分類されるときの基準が何なのか
しばらく不明瞭なままであったのだが
つい最近「結局私は侘び寂びと禅の美意識に浸されているのだ」
と気がついた。

若い頃は安かろう悪かろうでも、安ければそれで良しとして
大量生産大量消費のものを好んでいた時期もあったし、
ビビッドで分かりやすいものに飛びついたりもしていた。

けれど結局どれも長い期間は好きではいられず、
疲れてきたり、飽きてしまったりしていたのだ。

今になり、やっと自分の好みに正直に向き合い、
自分の中に湧き起こる小さな違和感を無視しないようにし、
私が求めているものは一体何なのか、
焦らずに考え続けたところ
出てきたものは、こうだ。

私は流行に乗ったり、消費を爆発させたり、
貧乏を自虐したり、大金を承認欲求に使いたかったり
そんなことがしたいのでは、無い。

私は、ただ在ることに、満たされていたい。

何が良いでも悪いでもなく何が上でも下でもなく、
「ただ在る私」が終わりのない何かと常に繋がっている状態でいたい。

それは単純な言葉で言えば、世界と繋がっていることであり、
宇宙も含めたこの世の全てと等しく繋がっていることでもある。

今の自分が好きになるものは、
結局はこの侘び寂びの理念と禅の美意識に
通じるものがある場合がほとんどだと判明した。

さて私は格別に侘び寂びや禅の思想などの勉強を重ねたわけでもなく、
一般常識程度にさらっと知っているだけの人だ。
しかし調べれば調べるほど、私が理想としている状態というのは
侘び寂びと禅の美意識にぴたりと当てはまっていることが判明してくるので
なんとも不思議なことである。

では私の中での侘び寂びと禅の美意識に繋がる
最も初期の記憶は何だろうかと
思い出を辿ってみた。
すると、面白いことに、祖父母の家の縁側にたどり着いたのだ。

祖父母の家の縁側は、いわゆる「くれ縁」で、
小さいながらも日当たりの良い、秘密基地のような細長い空間だった。
縁側の端、壁があるところには古い椅子形式の文机があり、
幼稚園や小学校時代の私はそこで塗り絵をしたり、本を読んだり、
夏休みの宿題をしたりしていた。

縁側は家の中と繋がっているにも関わらず、
そこに一歩入ると別世界が広がっていた。
ひっそりとした空気と、陽だまりの心地よさがあり、
溢れるざわめきから隔離される安心感がある場所だった。

今になって気がついてみれば、
おそらく私は縁側で「ただ在る私」に戻っていて、
何にも忖度せず、何ににも煽られず、
そのときの私と世界が真っ直ぐに繋がっていたのだと思う。

祖父母の家の縁側は
世界と繋がるポータルだった。

そして今でも私は、自分の家に
あの縁側を求めているのだと気がついた。

それは必ずしも物理的な縁側である必要はなく
「あのときの縁側」つまり世界と繋がるポータルを
自分の暮らしの中に持ちたいと
切実に感じているのだ。

最近私は時々、目を開けたままで瞑想していることがあるのだが、
今日はシンギングボウルを自分のために鳴らしながら、
そしてその残響のままに瞑想をしながら、
「あのときの縁側」を思い出すことができた。

祖父母の家の縁側で、
感じていたことすらも思考としては理解できなかった頃、
私は自分をあの縁側でゼロ地点に戻し、
世界や宇宙と無意識に繋がっていたようだ。

だから私が求めているものが何なのか
今発見したわけではなく
単に思い出しただけに過ぎない。

私はずっと前から、自然に知っていたのだ。
ただ在ることがいかに重要で、
いかに生きる上での素晴らしい何かで、
世間の喧騒や周りの大人たちの渦巻く黒煙とは
全く別のものであることを。

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