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やらないことリスト #27

誰しも、ポリシーとか美意識的なものがあって、これをやる自分は嫌だってのがあるのではないかなと思う。私のやりたくないリストを下記に記録(でもやってしまう時もあるから自戒も込めて)

1. 他人に意見を押し付けない

大学時代に体育会剣道部という、「超コンサバ」みたいな集団の中に4年間いたのだが、先輩や同期から自分の意見を”正義”のように押し付けられると感じることが多々あり、嫌だなと薄々感じていた。しかし、そもそも剣道が好きでも得意でもないのにその部にいるという無理が大き過ぎて、「意見を押し付けられるのがすごい嫌だ」ときちんと自覚もできていなかった。剣道は警察とか世の中で”正義”とされているところと近い、というのもあるのだと思うのだが、そういう暑苦しい押し付け、「俺の/私の意見が正義だ!」という感じが心底嫌だったんだと気づいたのは、大学と部活を卒業し、変人と自由人の巣窟みたいな大学院に進学してからだった。

私も、ついつい、おせっかいババアのように、○○すごいよかったよ!!!とか、何かの意見を押し付けそうになるし、実際押し付けてしまうこともあるのだが、当たり前だが他人と私は違うのだから、押し付けないように押し付けないように気を付けたい。

2.  自分を大きく見せない

たまに、仕事できるフリを会社以外でしている人を見る。話しぶりは、なんかすごく仕事できそうに聞こえるのだが、同僚だった私からすると、「いや、ちょ・・恥・・」みたいな感じがして、なんか居た堪れなくなり、逆にコンプレックスあるのかな・・と勘ぐるし、私もそういうところがないだろうか、と心配になってくる。断っとくと、私は仕事できるタイプではない(キリっ)。細かい銀行員が多い中、完全B型やりたいことしかやれない大雑把タイプの私は、1-2年目は色々できないことが多くて(しかもどれもやりたくなくて笑)、しょっちゅう怒られた(そして上司&男の先輩が嫌いだった笑)。色々嫌だった銀行の雰囲気に徐々に飼い慣らされ、3年目以降にだいぶマシになったが、適応に時間がかかった。頭の回転の速さと手の速さと資本主義社会順応力は、コグマのじいさんには敵わないと思う(じいさんには、全てがゲームと同じように思えるらしい)。自分を過大に見せることなく、できないところはできないと、素直に見せられる人でいたいと思う。

3.  人をジャッジしない

「生産性」でジャッジしたり・されているような気が会社員時代はしていた。まあ実際、その生産性が収益となり、給料になるわけなので、生産性が低くて「仕事ができない」人と絡むと、余計な仕事が増えたりして非常に疲れるわけなので、ある意味それは致し方ない。誰かに迷惑をかけられたこともあるし、自分も誰かに沢山迷惑をかけてきた。

一方で、日本の大学院生時代から、NPOの世界に関わって思ったのは、人を「いい・悪い」「生産性ある・なし」などどジャッジしない世界は非常に優しく、息がしやすいというということである。今の難民支援NPOも、日本でずっと関わっていたNPOも、人をジャッジしない= non judgementという原則があって、支援する側・される側も関係なく、皆が居心地よくいられる空間づくりに重きが置かれていた。いわゆるクライアントと呼ばれるDV被害者やレイプ等の集団的暴力の被害者だけでなく、スタッフやボランティアだって皆、この資本主義・競争社会でジャッジされるのに疲れて、傷ついているところがある。non judgementの原則がきちんと生きている空間にいると、どの人間もそれぞれ違った役割があり、みんなそれぞれ生きていることに意味がある、という肯定感を与えてくれる。

何かプロジェクトで関わっている人が非合理的だと、ついイラっとして、ジャッジしてしまう。でも、世の中すべてが合理的だったら、非常に不自然なわけだし、そこでイラッとしている自分をどうもっていくかの学びを与えてもらっているとも言える。その人個人をそこだけで切り取ったりすることでなく、そういう非合理的な部分もあって、その他のいろんな特徴もある、広いユニバースの中の一登場人物なんだと思って、淡々と受け入れる。

誰かをジャッジすると、その刃は自分に向くのだ、いずれ。

誰もジャッジしないし、されない、そういう社会に生きたいし、だから私もジャッジしない人でありたいと思う。






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