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台湾デジタル担当大臣オードリー・タンさんの苦悩を知る 母の手記から

今や、台湾のデジタル担当大臣として知られるオードリー・タンだが、
これまでに知られる事のない人生に多くの重荷や葛藤を送っていたことを
知る本となりました。

オードリーはギフテットとして生まれながらに才能を持って
生まれた子でした。

オードリーの誕生は1981年。

台湾では1949年から87年までの38年間もの長きにわたり、
厳戒令が敷かれていました。

その頃の民主化の整っていない台湾ではとても生きづらかった様子が
書かれています。

公立の学校に進むも体罰やいじめに悩まされ、
母親の李・雅卿は当時新聞社の記者として働いていたが、
その職を捨て子育てに多くの時間を費やし、
子どもたちを育てるために奮闘していました。

オードリーは学校に馴染めず、休学を申しでるも、
当時の台湾では義務教育として休学を認めてもらえず、
登校しないと親に罰金が課せられる時代でした。

そして、オードリーは先天性心臓病があり、病弱なところがありました。
医師からは風邪を引かせず、激しい運動もできません。と告げられました。

子どものことを思う母親としては健康であって欲しい我が子に、
泣きたくなるほど辛いことだったと思います。

幼稚園入学で団体生活が始まったオードリーだったが、
3つの幼稚園、6つの小学校と中学校は1年だったが、
10年間で10の幼稚園・小学校に通うことになるのでした。

オードリーが飛び級をして、4年生から6年生になった頃、
父である唐光華はドイツへの留学をしました。

一家も遅れて、ドイツへ渡る決断をします。

ドイツでは、ドイツが話せない事もあり校長先生にも
学年を1つ落とした方が良いとのアドバイスを受け、
1学年落として小学校で1年を過ごすことになりました。

環境を変えた事によって、教授などと新しい出会いもあり、
今後の進路はアメリカへ渡った方がいいと指南され、
選択を迫られることになります。

その頃、またオードリの心臓に異変が起きてしまいます。

オードリーはドイツにも残らず、アメリカに行くこともなく、
台湾へ戻りたい。と決意。

台湾に戻ってしまうと、また台湾の学校教育の型に嵌まるのが、
困難になると予想した母はアメリカ行きの方が幸せになる道と
思い込みます。

しかし、オードリーは自分の生まれた国を愛していて、
台湾に戻って教育改革をしたいという思いまで持って帰国を望みました。

母は国から逃げる。永遠に戻りたくないと思っていたが、
オードリーの意志を尊重し、家族は父をドイツに残し台湾へ帰国することを決意します。

そして、台湾で生後から診てもらっている医師の元で手術を受けて
元気な身体を取り戻します。


11歳の子どもが自分の国を愛し、そして嫌な事もたくさんあった国に帰るという思いを持てる事に、とても感動した場面でもありました。


台湾に帰国後、母は『種の学苑』のちの『種の親子実験小学校』を子どもたちと設立しました。


こちらの本はオードリーの母の手記『成長戦争』を
翻訳し参考・引用しながら書かれた本であります。

類稀なるギフテッドを授かったオードリーをここまで育てあげるには、
並大抵ではない困難や努力があったものだったと思いました。

子どもが学校に行かない・行きたくない・行けないというのは、
親としてはとても不安になり、どうしても義務として
行ってもらいたいと思うものです。

しかし、学校に行く本人は意志があり、決められたレールに乗りたくないと頑なにそう思えば学校の意味さえわからなくなるでしょう。

今後、社会へ送りだす未来の子どもたちに、
子どもそれぞれの意志にあった学校作りができるといいのだと思いますが、
集団生活ではなかなか難しいところもあります。

我が子を守ってあげられるのは、母や父である親であります。
子どもの成長に伴って、子どもの思いを聞き入れまた、話し合い、
ベストな選択を取れるのと良いのではと思いました。

もし、オードリーの様に、ギフテッドなどで周囲と馴染めなかったり、
不登校であったりする子をお持ちの方にはお薦めな1冊だと思います。

途中、涙してしまうくらい、オードリーの母親の愛が素晴らしく感動でした。

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