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炎の中に見えるもの:2021年9月16日(マッチの日)

マレーシアの首都であるクアラルンプールの中にある繁華街・ブキビンタン地区に行くと路上に器を置いて座っている人を見ることが少なくない。

中には産まれて間もない子供を抱いている女性や腕がないおじいさんなどもいて、道行く人たちは何も言わずに少額の紙幣を器にそっと置いて行く。

夕方に突然雨が降ると、どこからともなくビニール傘を両手に抱えた人たちが現れて、ホームセンターなどで買うよりも約1.5倍の値段の付いた傘を、雨に濡れながら売って歩く。

マレーシアでの日常の光景だ。

9月16日はマッチの日。1948年に当時配給制だったマッチの自由販売が認められた記念日だ。今、火を使うことはアウトドア以外で滅多にないことだし、ライターやチャッカマンがあるのでマッチの出番は減っている。

マッチで思い出すのは、アンデルセンの童話「マッチ売りの少女」だ。
大晦日の雪の降る寒い夜、マッチ売りの少女はお腹を空かせながらマッチを売り歩くが、誰も買ってくれない。少女は寒さに耐えきれず、売り物のマッチをすってあたたまろうとしたところ、マッチの炎の中には少女の望むものや大好きなおばあちゃんが浮かび上がっては消えていった。そして、少女はマッチをすり続け、翌朝には亡くなった状態で街の人たちに見つけられる。

子どもの頃にこの話を読んだときには、可哀想な少女に対して、なんで誰にも助けられなかったのだろうと涙が出たことがあった。

マッチ売りの少女にとって、マッチをすることは売り物に手を付けることになる。マッチが売れずに自分で使ってしまったとなると、家に帰って父親から殴られてしまうかもしれない中、少女はマッチを使った。

寒空の中でマッチが売れないと家に帰ることができない現実が少女にはあって、童話のモチーフになった当時は、それが当たり前にあった光景だったのだろう。
そして、マッチ売りの少女は「幸せな死」で最後は救われたのだと、童話の中の最後には語られている。

マッチ売りの少女の童話の中での最期は、ただ大好きなものや大好きなおばあちゃんに囲まれて、何も誰も恨むことなく死んでいく姿が描かれている。


マッチ売りの少女のような話は童話の中の絵空事だ、と子どもの頃は思っていた。
でも、大人になって世界に出ると、フィリピンではストリートチルドレン、マレーシアやタイでは物乞いで生活する人たちがいることを実際に見て知った。フィリピンでは学校にも行かずに、道端で花やお菓子を売っている子どもたちに囲まれて、何とも言えない気持ちになった。

彼らのことを「不幸だ」とか「可哀想だ」と決めつけてしまうのも何か違うし、それは置かれた場所で一所懸命に生きている彼らに対して失礼だ。

ただ、彼らを最後に救えるものが、マッチ売りの少女のように「死」ではあってほしくないと切に願い、微力ながらも支援は続けていきたい。

マッチ売りの少女の話は、「どんなに辛いことがあっても、最後は天に召されて幸せになることができる」ということが描かれていると私は解釈している。

死は誰にでも平等に訪れるもので、死に向かって私たちは毎日生きている。

では、「なぜ生きる」のか。

いつかは消えるマッチの炎の中で見られる光景に、もしかしたらその答えがあるかもしれない。

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