建築系の独特の言葉の翻訳は、本当に難しい
都市・建築・街づくり分野で編集・ライティングの仕事に関わる私は、日本の事例を日本語で取材・リサーチして、それを英語で海外メディアで発表したりPRをお手伝いすることが元々多いが、最近、翻訳の依頼も増えてきた。具体的には、建築事務所のHPの事例翻訳や、冊子・書籍の翻訳など。最初は、機械的に訳すのであればそこまでクリエイティビティが求められない仕事だなと思い、できるだけお断りをするようにしていたけれど、最近になって、都市・建築・街づくり分野での翻訳の面白味が掴めてきた。というより、その難しさに対峙して、「クリエイティビティが求められない」なんて思ってごめんなさいと、反省している感じ。
今まで、多くの建築家にインタビューしてきたけれど、人によって、もちろん言葉使いや、表現の仕方が違う。作品はピシッとスキがなく完璧なのに、信じられないほど口下手の人もいれば、プレゼン慣れした様子で、こちらが感心するほど巧妙に説明してくれる人もいる。ある空間について説明する時、使っている素材や構造など、工学的かつ理論的に話す人もいれば、ポエティックかつコンセプチュアルに、ふわっと説明する人もいる。言葉だけではない。写真や動画を使った表現方法にも、人によってクセがある。どんな表現方法をするにせよ、言葉というものは必然的についてまわる。
「物理的なものを他者に説明するのは、そもそも難しい」と、勝亦丸山建築計画の建築家・勝亦 優祐さんが言っていた。そこにさらに翻訳が入るとなると、さらに事態は悪化する。日本語だけでも複雑なのに、そこに他言語が入ってくるわけだ。
私の場合は日本語と英語を扱うわけだけれど、建築分野での日本語→英語の翻訳は、特に難しいなと思う。(きっとアート関係の翻訳をされている方などは、もっと苦労されているんだろうなとも思う)いろんな不満や苦労があったので、忘れる前に、忘備録としてまとめておく。
「文化の翻訳」の失敗
これは有名な話だけれど、そもそも、「建築」という言葉自体が日本では独特の使い方がされている。Architecture というのは、物理的な建物をさす言葉ではない。つまり、
日本語では、「これら三つの建築はとても美しい。」という表現を普通に使うけれど、これを訳すと、
「These three architectures are very beautiful.」
には、ならない。
新たな翻訳語としての「建築」という言葉は、明治になって初めて日本にもたらされた。この時、伊東忠太が「アーキテクチュールの本義を論じてその訳字を撰定し我が造家学会の改名を望む」という論文を発表してから「建築」という言葉が一般に認知されはじめたわけだが、建築家の神谷武夫は、それまでの日本にはなかった概念を輸入するときの、いわば「文化の翻訳」の過程における伊東忠太の大いなる失敗であった、と話している。神谷武夫の議論はこの記事から読めるので、詳しくはそちらで。
ここでは詳しい説明は省略するけれど、要はこの「建築」という言葉そのものにも、翻訳を介した様々な複雑性が潜んでいる。この時点で、逃げ出したくなる。
前提として、直訳ではほぼ意味をなさない
多くの建築家と話をしてきて、「あ、この人、多分建築家だな」と分かる瞬間がある。言葉の選び方とか、喋るトーンとかで。
言葉に長けていない建築家も多い。その場合は作品で判断するしかないわけだが、その場合は、写真を見るだけでなく、作品を実際に訪れたり、体験してみないと、建築家の言わんとしていることが、正直あまり分からない。だから、「これ翻訳してください〜」と、ぽんっと文章だけ渡されるだけでは、まともな翻訳ができない。直訳すると、ほぼ100%意味のわからない英文になる。
日本でも良く使われている和製英語に引きずられて、ここでは「Chill out」を使ってくださいとか、ここは「tiny」が良いです、と指定される場合もある。出来るだけクライアントの意向に添うようにしつつ、例えば日本人の言う「Chill out」と英語圏で言う「Chill out」は、ニュアンスが違うことも多い。その場合は、日本の文脈でどのように「Chill out」が使われているかを理解したうえで、英語のトーンだったらこの単語が良い、と判断する必要がある。
妙に同一表記にこだわる人もいる。「視線の抜け(感)」「視線のずれ」
「囲まれ感」「空間の抜け(感)」「居場所」「光が回る」「光が落ちる」「光の取り入れ方」「解放感」「繋がり(感)」「柔らかく区切る」など、日本の建築家なら良く使用する独特の言い回しを、事例を超えて統一表記をして欲しいと言われれる。正直、できない。視線の通り方や光のあり方は、事例によって当然異なるので、文脈に合わせて説明する必要があると思う。そして、日本語独特の曖昧さゆえ、何を意味しているのか、100%分かりかねる場合も多い。(特に、この(感)というのが厄介。やたら頻出する。)だから、文章を書いた建築家の著作を事前に読んだり、実際に話したりして、その人の表現のクセみたいなものを、きちんと把握しておく必要もあると思う。
違うのは、言葉だけではなくて、空間の感じ方、理解の仕方なのでは(言葉というよりも、文化の翻訳)
様々なテキストを翻訳しながら気づいたのが、これは言葉の違いだけではなく、空間の感じ方、理解の仕方の違いなのでは、と気づいた。
先述の神谷武夫が、「言葉の翻訳」の失敗ではなく、「文化の翻訳」の失敗と言っているのも、ようやく理解できた気がする。
そうであれば、海外の建築家の言葉使いや、空間の把握の仕方、説明の仕方なども、翻訳をする際は、掴んでおく必要がある。
例えば、日本の建築家の文章には、「境界の曖昧さ、余白、間」に関することがとても多い。パブリックとプライベートの緩やかな繋がりや、明確に線引きされていない空間と空間の境界など、日本人、あるいは日本の建築文化に親しんでいる人が聞けば、ああそうね、とすぐ理解できる。でも、これは日本文化特有の空間認識であって、直訳では伝わりにくかったりもする。
記憶は曖昧だが、建築家・内藤廣の『環境デザイン講義』を読んでいた時、家の向く方角にここまでこだわるのは日本くらいだ、という文言があった気がする。方角に対する意識も、地域や文化によって大きく異なる。
一言で「海外の人」って言っても、誰?
繰り返すけれど、翻訳をする際、その文章の読み手の文化や空間認識の特殊性など、掴んでおくことは大切だと思う。
英語での発信は、英語圏の人だけが読むわけではない。誰に読んでもらいたいのか?これは、日本語を書くときももちろんだし、翻訳する際にも、クライアントとしっかり目線を合わせておきたなと思う。
読んでいて感動してしまうような、魂のある言葉を翻訳したい。
私の翻訳家としてのキャリアはまだまだスタートしたばかりなので、出来ていないことも山ほどあるし、翻訳論を語れるほど知識もない。なので、「翻訳って思っているより難しいんだな」くらいのメッセージを、伝えられたらなと思った。ライターと同じく、翻訳家(特にフリーランス)は買い叩かれている人もよく見かける。魂の篭っていない記事を、駆け出しの頃は私も翻訳したことがある。でも、翻訳の難しさと面白みに触れた今、書き手が時間と想いを込めた文章を、きちんと丁寧に翻訳したいなと思う。
建築の場合、それは言葉だけでなく、ドローイングやモデル、構造やアートワークなど、全てが翻訳の対象になると思う。「 Art in Translation(翻訳の美学)」を、これからも意識して精進していきたい。
都市・建築分野専門編集者・リサーチャー / 杉田真理子
デンマークオーフス大学で都市社会学専攻、その後ブリュッセル自由大学大学院にて、Urban Studies修士号取得。ブリュッセル、ウィーン、コペンハーゲン、マドリードの4拠点を移動しながら、エリアブランディング、都市人口学、まちづくりの計画理論などを学ぶ。欧州を中心に、現在まで多くの都市・街づくり関連団体を訪れ、参加型調査やワークショップを重ねてきた経験から、参加型街づくりの仕組みづくりやその情報発信を得意とする。株式会社ロフトワークで空間デザイン・まちづくり系プロジェクトのプロデュースとマーケティングを務めたのち、2018年5月から北米へ拠点を移動し、フリーへ。都市に関する取材執筆、調査、翻訳、調査成果物やアーカイブシステムの構築など、編集を軸にした活動を行う。都市に関する世界の事例をキュレーション ・アーカイブするバイリンガルWebメディア「Traveling Circus of Urbanism」、アーバニスト・イン・レジデンスの拠点「Bridge To」を運営。一般社団法人「for Cities」共同代表・理事。
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