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【有限と無限:亀と漁師のたとえ🐢】(大川隆法著『太陽の法』ポイント解説④)

この記事に目を通して下さり、本当にありがとうございます!

私の記事では、大川隆法先生累計3500回の法話3100冊以上の著書から、おすすめポイントを紹介しています。

今回から数回に渡って、大川隆法著「太陽の法」のポイント解説に挑戦してまいりたいと思っています!

2024年、「何か一冊オススメ書籍は?」と訊かれたら、間違いなく『太陽の法』をおすすめさせていただきたいです。



「太陽の法」

(引用:公式サイト


「太陽の法」は幸福の科学の基本書かつ最重要経典です。

大川隆法先生は、1986年7月に大手総合商社を退社・独立後、わずか19日間で、自動書記にて、この『太陽の法』を書き上げたと言われています。

(自動書記とは、天上界の啓示を受けて、ひとりでに文章を綴っていくような状態です。)

つまり、この『太陽の法』こそが、華々しい経歴を誇ってきた大川隆法先生が、学歴や出世街道など、約束されたエリートとしての未来全てを投げ捨ててでも書きたかった、真理の一書、ということになります。

以後、『太陽の法』は当会の根本経典として、30年以上もの間、人々の心を潤し続け、世界23言語で発刊の大ベストセラーとなっています!

人類の永遠の疑問への答えを明確に説き明かした「太陽の法」。
その魅力の一端なりとも、このnoteにてご紹介できれば、この上なく光栄です。

この一冊と出逢うために、あなたは生まれてきた―。

その言葉の意味を噛みしめながら、このnoteで出会ったすべての皆さまに、愛をこめて、『太陽の法』との出会いを贈ります。

第4回目となる今回は、『太陽の法』第1章「太陽の昇る時」から、第4節「有限と無限」をご紹介します。

以下、書籍からの抜粋となります。


「有限と無限」

人生は有限か、無限か。

また、宇宙は有限か、無限か。

人間ならだれもが、一度は出くわす疑問でしょう。

この結論を出すために、私は一つのたとえ話をしたいと思います。



むかし、あるところに、大きな亀がおりました。

その亀は、右足を出すのに十分、左足を出すのに十分、後ろ足を出すににもそれぞれ十分ずつ。
つまり、体をひとまず動かすのに四十分もかかりました。

あるとき、この亀は、砂浜の海岸に、行きつくところがあるのかどうか不思議になりました。

そこで、ひとつ世界探検をしてやろうと思いつきました。

そして、見わたせるかぎりの海岸をハッタとにらんで、全力をふりしぼって歩みはじめました。

自分の体を、ひとくぎり前に前進させるのに、四十分もかかりながら、海岸線の測量をはじめたのです。

亀は、自分がすでに歩いたところかどうかがわからなくならないように、砂浜に点々と足跡を残してゆくことにしました。

こうすれば、同じところを二度歩かなくてすむと考えたからです。

なかなか賢明な亀だといえます。


しかし、いくら歩けども歩けども、海岸線は永遠におわることなく、とうとうある日、亀は、力つきてしまいました

自分が全世界の半分ぐらいは踏破したと信じながら、死んでしまったのです。


あくる日、島の漁師がやってきて、その亀を引きずって島の反対側へともって行き、食べてしまいました。

島の反対側まで行くのに、たいへんな時間がかかったでしょうか。

いえ、漁師の健康な足をもってすれば、わずか十分でことたりました


結局、あわれな亀は、太平洋の波が自分の足跡を非情にも洗っていたとも知らずに、小さな島の砂浜をぐるぐるとまわっていたにすぎなかったのです。


有限と無限について考えるときに、私は、いつも、この亀と漁師の話を思い出さずにはいられません。


亀と漁師のちがいは、どこにあるのでしょうか。

歩く速さ。
もちろん、それもあります。

体の大きさ。
もちろん、それもあります。

あるいは、経験量の差。
そういうこともいえます。


しかし、亀と漁師の根本的な差異は、認識力の差にあったといえるのではないでしょうか。

亀の目的、努力、そして熱意は、みあげたものですが、その結末にペーソスが漂うのは、なぜでしょうか。(注:ペーソス…哀愁)

やはり、そこには、わかるものとわからないものとの差、知ることができるものと知ることができないものとの差、そういったものがはっきりとあるように思います。


ところで、この亀と漁師を唯物論者と真理体得者といいかえてみたらどうでしょう
「私は亀ではない」と、怒りはじめる方もきっといるはずです。


人生は、六十年、七十年の有限なもので、死ねばなにもかもがおわりだと思っている人。

自分の目に見える部分だけがすべての世界で、五官を超えた世界などはまったく信じないといってはばからない人。

こういう人は、結局、世界体験に出かけた亀のように、自分の足跡だけをたよりに、同じ小さな世界をぐるぐると堂々めぐりしているにすぎないのです。

まことに気の毒な人だといわなくてはなりません。

しかも、まさにあの亀と同じように、鼻に脂汗を浮かべて、必死に人生を生きているから、また、小さな島をぐるぐるとけんめいにまわっているから、どこかペーソスをおびているのです。



私たち人間は、はるかむかしから、永遠の生命をもって生きております。

そして、何度も何度も、地上に生まれかわっては、人生修行を積んでいるのです。

この地球を磁場とした世界だけをとってみても、私たち人間の生命体が活躍している空間は、この三次元世界だけではありません。

わたしたちは、本来、実在界、すなわち、四次元以降の住人なのです。

それは、四次元、五次元、六次元、七次元、八次元、九次元、最上階である十次元まで広がっています。

そして、心の段階によって、それぞれ異なる調和された世界に住んでいるのです。



ですから、宇宙が有限か、無限か、を悩んでいる方に対して、私は、「あなたがたが問題としている宇宙とは、三次元宇宙ですか。それとも四次元以降の多次元宇宙ですか」と聞きかえさざるをえないのです。

宇宙を人体にたとえるならば、三次元宇宙とは、はだかの肉体人間です。

四次元宇宙とは、肉体をつつむ下着であり、五次元とは、下着の上のワイシャツ、六次元とは、ワイシャツの上のセーターです。
七次元とは、セーターの上にはおるスーツ、八次元とは、全身をおおうコート。
そして、九次元とは、頭の上の帽子のようなものなのです。

右(上)に述べたのは、もちろん、単なる比喩にすぎませんが、多次元宇宙構造をよくあらわしていると思います。 

すなわち、高次元宇宙とは、下次元宇宙をスッポリとおおうものなのです。

(大川隆法著『太陽の法』第1章「太陽の昇る時」第4節:有限と無限 より)


<感想・気づき>


・有限と無限


人生は、有限か、無限か。
宇宙は、有限か、無限か。
人間ならだれもが一度は出くわす疑問だ、と先生は仰っています。

が、正直なところ、「人は死んだらどうなるのだろう?」くらいは思います。

ただ、「宇宙は有限か、無限か?」という疑問は、考えることもなく一生を終える方も多いのではないかと思います。

こうした疑問を持つことができる、ということ自体が、真理を求めている方である証拠なのかもしれません。


・亀と漁師のたとえ

「砂浜の海岸に、行きつくところがあるのだろうか」

不思議に思った亀は、体をひとくぎり移動させるのに40分もかかりながら、世界探検に出ます。

行けども行けども終わりは見えず、とうとう世界の半分くらいは制覇しただろう、と信じて死んでいく亀。

ところが、亀が一生懸命探求した道も、漁師からしたらわずか10分。
自分の足跡を波が消していることも気づかず、ぐるぐると回っていた、哀れな亀なのでした。

先生が仰りたいこととしては、「唯物論者と真理体得者は亀と漁師ぐらいの違いがあるよ!」ということだと思います。

亀は確かに一生懸命なのですが、自分のモノサシで全てを測ってやろう!という傲慢な態度が気になりますね。

「この世界には、まだ自分の分からない世界がある」、そのように思えていたら、自己流の方法で突っ走り、死ぬこともなかったのかもしれません。

誰かから道案内のアドバイスを受けるなり、波が足跡を消す可能性を聞けていたら、「何も解明できず、死ぬ」という残念な結果にはならなかったのでしょうね。

亀と漁師の圧倒的な認識力の差、悲しくなるぐらいですが、仏の目から見たら、真理を知っている者と知らない者では、雲泥の差があるということだと思います。

そして、真理を知っているからといって、いつでも「漁師」の側にいるとは限りません。

「愛とは人に与えるもの」という真理ひとつとっても、知っているだけで、実際に実践できているかは難しいです。

私だって、いつでも「亀」である可能性があります。

「漁師」だったけど、怠惰な生活を送った結果、「亀」にレベルが下がっている可能性だってあります。

「漁師」並みの認識力をキープできることを目指して、日々精進していきたいものです。

ちなみに余談ですが、私の周辺で、この「亀と漁師」のエピソードが流行った時には、「お前はまだ亀だ!」「漁師のレベルに達してないじゃないか!」と友人同士で言い合ったものです。笑


・永遠の生命を考えた時、人生は無限。

私たち人間は、はるかむかしから、永遠の生命をもっており、地上に生まれかわっては、人生修行を積んでいる。

これは、仏教でいう、転生輪廻の思想なので、日本人の皆さんにも馴染みのある考え方だと思います。

つまり、あの世もあるし、過去世も、来世もある。

そう考えた時に、私たちの人間の生命は、決して有限ではなく、無限の存在である、ということができます。


・多次元宇宙を考えたとき、宇宙も無限。

「宇宙が有限か、無限か」、という疑問に対しては、「あなたがたが問題としている宇宙とは、三次元宇宙ですか。それとも四次元以降の多次元宇宙ですか」と聞き返さざるをえないそうです。

この時点で、「何の話ですか?」と「?」が飛びそうですね(笑)。

つまり、宇宙というのは四次元以降にも広がっている存在で、決して三次元で完結する存在ではない。

そのため、「宇宙が有限か、無限か」という問いには、四次元以降の多次元宇宙の話を入れないと答えることができない、ということだと思います。

実際には、高次元宇宙は、私たちの生きている三次元の宇宙など、下次元の宇宙をスッポリと覆う形で存在しているそうです。

次元が上がるにつれ、いっそう高度な目的をもった世界が展開されていきます。

宇宙の秘密、気になる人はこのまま太陽の法を読み進めていきましょう!


<まとめ>

今回のポイントをまとめておきましょう☆彡

  • 亀と漁師のたとえ

唯物論者と真理体得者は、「亀と漁師」ほどに認識力の差がある。

あわれな亀(唯物論者)は、太平洋の波が自分の足跡を消していたことも気づかず、世界の半分ぐらいは制覇したと思って死ぬ。

漁師(真理体得者)からしたら、亀の歩みは、小さな島の砂浜をぐるぐるとまわっていたにすぎない。
亀が何日もかけて、力尽きるまで歩んで来た道のりは、漁師からしたら十分で事足りる。

人生は有限で、死ねば終わりだと思っている人は、自分の足跡だけをたよりに、同じ小さな世界をぐるぐると堂々めぐりしている亀にすぎない。


  • 永遠の生命を考えた時、人生は無限

人間は、永遠の生命をもって生きている。
何度も何度も、地上に生まれかわっては、人生修行を積んでいる存在。

また、私たちの生命体は本来、実在界(四次元以降)の住人。
実在界は、心の段階によって、四次元、五次元、六次元、七次元、八次元、九次元、最上階である十次元まで広がっている。


  • 多次元宇宙を考えた時、宇宙は無限

四次元以降の多次元宇宙があると知った時、宇宙もまた無限である。


亀の話から、宇宙にまで話が飛ぶ、高尚な回となりました。

「亀と漁師」の「漁師(真理体得者)」を目指そう!
私たちは永遠の生命を持っているんだ!
人間の生命も、宇宙も無限に進化していけるんだ!

あたりをポイントに掴んで下されば幸いに存じます🌷


なお、「太陽の法」第一章では、この後、宇宙の創造や地球成立についての解説が続きますが、応用編になるため、一旦人間社会に戻ろうと思っています。笑

次回は、第2章「仏法真理は語る」より、私たち自身のことについて、より深めていきたいと思います。

「太陽の法」は本当に高尚で解説が至難の業ですが、できる限り分かりやすく、お伝えできるよう精進してまいります。

最後までお読みくださり、ありがとうございました⭐️



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