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Still Breathing

 夢を見た。きっと白昼夢だと、夢の中で気づいた。
 目の前を通過していった電車は、都会では滅多に見ない鈍行列車。古びた腰掛けも、薄汚れた窓も、久しく見ていない。短い車両が見えなくなると、目の前に見慣れた駅が現れた。「双葉駅」と錆び付いた金属の文字が並ぶその駅は、高校時代に毎日通った場所だ。毎日の部活を終え、夕方になると、電車到着時間の差し迫る古びたこの駅へ部活終わりの疲れた身体を酷使して走った。六時半の電車を逃すと、次が到着するのは一時間後だ。ひと駅隣の町に帰るのに、徒歩だと二時間超を要することも、身をもってよく知っている。
 改札口を抜け、外に出ると、静かな町の商店街が目に映った。閑散としている、という言葉の代名詞のような場所だ。駅の周りには、電車を逃した学生が一時間もひまつぶしできる場所はない。あたしは面倒くさがりで大抵ダッシュを諦めていた。汗も乾いて寒くなってきた身体を駅傍の電話ボックスへ預け、おちょくるように駅の時計から出てくる定刻の人形パレードを、真紫の自販機で買った寒天ジュース片手に見るのが主だった。あの頃よりも、一時間を長く感じたことはない。社会人になった今、退屈な時間を過ごすことが苦手なのはこのせいだろう。
 あの頃から何一つ変わらない街並み。当然だ、この風景はあたしの記憶が生み出した夢だ。あの頃以来、この町には一度も訪れていない。なぜ実家のある浪江ではなく、高校時代を過ごした双葉駅なのだろう。まぁいい、この夢の中では、記憶通りの綺麗なままの故郷が映っている。
 辺りを見渡すと、制服をまとった高校生達が右手の真っ直ぐに伸びた坂道を歩いて行くのが見えた。その列の一員だった頃は、朝連に寝坊した野球部の先輩たちが、早朝とは思えないスピードで全力疾走しているのをよく見た。同じ時間帯で来る友人の思い人の後姿を、目で追っていたことも懐かしい。過去の思い出に浸りながら、線路つたいに流れていくその列の、最後尾をあたしは歩いた。一キロ程の道のりには、学生時代に飽きるほど眺めた風景が溢れていた。町を彩る桜の木、幽霊屋敷と呼ばれていた無人の社宅、先輩の嘘で高校の体育館だと信じ込んでいた東電社員の独身寮、雨降りの時によく恋人達が待ち合わせたトイレとベンチだけの小さな公園。真夏に友達と肝試しに行った小さなお寺、出来た頃に少し流行ったパン屋、町の図書館に通ずる横道、クラスの男子が引きちぎった自衛官募集の広告板。駅から一本道の通学路以外では、休み期間中の部活の外周走のときに使ったズル道や、卒業後に閉店したと知った本屋、寄り道の出来る安いスーパー、隣町の病院で働いていた母が仕事帰りによく車を停めて待ってくれていたよけ道。細かい部分はあまり覚えていないのだろう。証拠として、記憶が再現するこの夢には、目先の道より先がない。否、ないわけではない。覚えていないのだ。移ろい行く日々の中で、きっと通学路の向こうは記憶の端の方に追いやられているのだろう。それだけの月日が経ってしまっている。
 細い路地に面した短い横断歩道を渡りきると、学校の入り口が見えた。杉の木と桜の木に縁どられたこの学校の周りを走る、伝統のマラソン大会があたしは苦手だった。女子のノルマである四キロの数字さえ嫌だった。六号線を通り抜け、田んぼのど真ん中にある厚生病院を一回りし、険しい山道を登るそのコースは、走る間にそれまでの人生で読んだ本を反芻しても足りない程長かった。きっと、田舎道のあまりに目指すべきものがなにもなかった所為だろう。十キロを走る男子は、遠く離れた海まで行って返ってくるコースで、折り返し地点で手に絵の具をつけ、不正がないようにその色で海まで行ったかを判断されるルールがあった。一部の男子は途中の物陰に潜んで先頭組を待ち、同じ色を塗って帰るということをよくやっていた。かつての卒業生だったあたしの父もやったという、伝統のズルだ。
 コ型をした校舎の真中は中庭で、花壇には四季折々の花が咲いていた。下駄箱を過ぎてすぐの通路は、晴れの日は解放され、雨の日はシャッターがおりて、そこから生徒たちは各々の教室に向かっていく。一階は三年生、教室のベランダは校庭と隣接していたが、登校は禁止されていた。教室にも校庭にもたくさんの思い出がある。一年の体育祭では女子対抗の棒取り大会を全身血まみれで戦った話は、今や飲み会でのあたしの持ちネタだ。敵将のはちまきではなく敵将本人を棒の頂点から叩き落したのだ。二年生の文化祭では隣の四組と合同でお化け屋敷を作り、三年のファッションショーでは男装をした。「宝塚にむいている」とまじまじと世界史の先生に言われた。誇らしかったのを覚えている。昔から容姿にはそれなりに自信があった。
 下駄箱で靴を脱ぎ、南側の教室へ流れていく生徒たちから外れ、あたしはひとり西側の通路へむかった。教務員用の手洗い場を過ぎ、外へ繋がる戸口を開けて、犬走りに出た。通路からは、学び舎の象徴でもあった満開の桜が見えた。なるほどこの夢は、やはりあたしの記憶に基づいて形成されているらしい。その証拠にあたしは、白い夏のセーラーに身を包んでいた。
 犬走りは、図書室に通ずる通路になっている。プレハブ戸の図書室の扉を開けると、新刊の紹介コーナーがある。そこには、数年前に発売された見覚えのある文庫本とファッション雑誌が置いてあった。その中の一つをあたしは習慣にて手に取り、もうひとつ奥の扉へ進んでいった。昔から本の並びが好きだったあたしは、図書館へ行くだけで頭が冴えた。本のタイトルを眺めているだけでインスピレーションが湧いた。その頃速読を身に着けたいていの本を数分で読んだので、あたしの来館回数と本の貸借履歴は比例しなかった。時たま借りていく本といえば、みんなが読みたがる最新のファンタジー小説ではなく、谷崎潤一郎の「春琴抄」やフランツ・カフカの「虫」、サリンジャーの「ナインストーリーズ」、グリム童話の「子供たちが屠殺ごっこをした話」————今思えばまったく嫌な女子高生である。しかしあたしがその頃からじっくり読みたいのはそういったグロテスク、かつ小難しい純文学であった。他にもシェイクスピアの晩年の作品について、論文を書いたことを思い出す。デカダンス傾向の文学が好きだった。改めて今思っても、あたしは奇妙な学生だっただろう。あたしの論文を読んだ現代文の先生は”前衛的にて優秀だ”と妙な言い回しをしていたし、図書館の司書は持ち出し禁止本の書庫の鍵を手渡しあたしを怪訝そうに眺め「読んでわかるの?」と聞いた。あたしの答えはいつも決まっている、理解できるかどうかではない、読んでどう感じるかなのだ。「人生はただ歩き回る影法師、哀れな役者だ。出場の時だけ舞台の上で、見栄をきったり泣きわめいたり、そしてあとは消えてなくなる」———その文から感じた事を、今も頭の片隅でずっと落とし込んでいる。
 図書室全体を見渡したあたしは、部屋の真ん中の一番前の席、いつも座っていた場所を見つめた。早朝の図書室を利用するのは、だいたいが決まった顔ぶれだった。毎朝この場所で、待ち合わせをしていた。
カリカリと、ペンの音を立てながら、教科書をめくったり辞書を引いたり。時々動きを止めて考えるように指をくわえ、また熱心に書き始める。先生から注意された回数数知れず、地毛の茶系の髪が、南側に入る光に照らされて更に薄まって見える。
 夏服に包まれた彼女が、そこに座っていた。朝日に照らされて光が跳ね返る。髪同様に茶色いまつ毛も、その明るさに薄く淡く見えた。白昼夢のせいだろうか、制服ですら半透明というか、白の色と光の色が反射して、窓を通り抜けてくる真夏の朝日だというのに、こんなにも眩しく見えるのはなぜだろうと———
「おはよう」
彼女のその声に、あたしは夢の中で目を覚ました。

 目の前に広がるのはお祭り色に染まった廊下だった。高校最後の文化祭の光景だ。
 高校生のお祭り騒ぎと言えば、お化け屋敷、たこ焼き屋、コスプレの三大イベントであって、どのクラスも同じことを考えていたから、どの階もゾンビに扮した先輩や、鉢巻を巻いた後輩たち、メイド服を着た厳つい男達でにぎわっていた。例外なく、あたし達のクラスのコスプレテーマも、「海賊」…のはずだった、が、あたしは男装ファッションショーに選抜され、金髪スプレーと男子のブレザーを準備していた。面倒だな、と思いながらも金髪に染め上げた頭が妙に気にいって、男装メイクを施した。同じくスーツで男装した友人とその日はつるんでいた。身長が高いショートカットのその友人は、バスケットボール部の主将も務めていた。スーツがよく似合い、正義感が強い人だった。
 メイド喫茶をやっている彼女のクラスへ押しかけると、戸口に立っていた彼女とその友達が駆け寄ってきた。メイド服を着ていた。
「おおー、カッコいい」彼女の友達が言う。「イケメンだね」
「そっちも似合ってるよ」
「メイドさん可愛いよ」
「気持ち悪いメイドもいるよ。見る?」
 彼女は教室の中を煽いだ。中からは男の野太い声が「いらっしゃいませ」「ご主人様!」と聞こえてくる。興味もないあたしは、要らないよ、とそれを送り返す。彼女とその友達は、さも面白いものを見たかのようにニヤリと口を歪める。めちゃくちゃきもいんだよ、と彼女の友達が笑っている。その子も彼女と同様、茶褐色の髪をしていたが、その子の場合は本物ではなく染毛だった。時より光に当たって撥ねる色が、彼女のものよりも褪せている。スタイルが良くて派手な子で、モデルになりたかったのを知っている。
「腹減ったからメシ行こうよ」
 あたしが声をかけると、横にいた友達が、悪い、と手を合わせた。
「うち、部活の準備に行かなくちゃ」
「その格好のまま?」
 勇者だねぇ、とあたしは友人を笑ってやる。この後の部活別演劇の準備だろう。女子ばかりの部活に、男装の良く似合う女子が飛び込めばどうなるか。友人はうるさいな、とため息をついて、時間を確認した。そして、ごめん時間だ、と言って、廊下の端へ消えていった。
「ごめん、ウチもまだ接客中でさ。この子担当終わったし、二人で行ってよ」
 彼女の友人も、そう言って忙しそうに時計を見た。そして、あっ、時間だわ、と言って、教室の中へ消えて行った。廊下にぽつんと取り残されたあたしはメイド服の彼女を見て、仕方ないね、と言って笑った。何が仕方ないの、嫌なら行かないわよ、と彼女は憤慨して言う。わかったようるさいな、とキャンキャン横で騒ぐ彼女を連れて、どこからか漂ってくるおいしそうなたこ焼きの匂いをたどって歩いた。

 ペンを持つ手を止めた彼女は、あたしを見てニヤリと笑っていた。茶色の大きな瞳がもの言いたげに動いて、そうしたと思えばまた、手元の教科書に視線を落とす。図書室の空気は変わらない。あの頃と同じ本の匂いがして、同じようなメンバーがいて、定位置の席に座っている彼女がいる。あたしはいつもそうしていたように、その左隣へ腰かけ、雑誌を机に投げて、彼女の隣に座った。
「ブルータスなら死んだよ」彼女が横で微笑んだ雰囲気がした。「華天の罅を往なせないでやんの」
 あたしの口から出てくるのは文学的な意味のないリズムの言葉。こちらを見ずに、彼女が微笑む。
「わたしは勉強中なの。ごめんね、相手できなくて」
 よく聞いた言葉だ。全クラス共通の毎朝お決まりの小テストを、勉強して臨む真面目な彼女と、一切の予習なしで挑むあたしの違いを、馬鹿にし合ったお決まりの会話。いつもの腹の立つ彼女の笑顔を、あたしもへりくだった物言いで小ばかにしていた。国立大学を目指す特進クラスにいる彼女は、毎日当然のように勉強していて、普通科文系コースのあたしは、それを毎日当然のように邪魔していた。お互いのその習慣は中学のころから変わらず、あたしのちょっかいに彼女が怒ることもない。傍から見ればその行為は、受験勉強をしている高校生のそばで、すべり芸のバラエティを見ているようなもので、あたしは国立大を受ける彼女に迷惑だろうと、親に想像を絶するレベルでブチ切れられたことがある。しかし今まで培われてきた成果は、その他に必要としない邪魔が入る環境でも、彼女の勉強に支障はない。むしろ、がんばりすぎて自分を見失ってしまう彼女のそばにいて、邪魔をすることが、あたしの役目だった。
 机に投げた雑誌を広げ、適当なページをぱらぱらとめくる。流行りのファッション、音楽、人気俳優などの特集を見る。
「あんたんとこ、文化祭の合唱曲決まった?」
「ううん、今日の学級会で決まるわ。そっちは?」
「決まった、藤原紀香の結婚式の曲」
「何の曲?」
「永遠にともに。知らないの?」
「知らない。だれの曲?」
「忘れた、聞きゃわかるよ」
 流行を追わない主義のあたしよりも数段、彼女は芸能ニュースに疎かった。勉強ばっかりしてるからだ、とあたしはよくからかっていた。引き続きペンの音を立てる彼女の隣で雑誌をめくりながら、彼女がだれよりも頑張っていることを、よくわかっていた。
「ケイティ・ペリーって綺麗よね。つい最近新しいアルバムを出してたな、前のが良かったからまた買おう」
「また洋楽?あきないね」
「冗談。J−POPのほうが退屈だよ」
「大塚愛なら好きよ。金魚花火」
 彼女が好きな音楽というのは、かわいらしい女性ボーカルの切ない恋唄が主だった。ほんのり甘酸っぱくて、きゅんと胸の奥底がしまるような、いつもそんな曲ばかりを聞いていた。恋に恋した女が聞く曲。そんな彼女にとってあたしの好む洋楽というものは、ほぼ破壊音にしか聞こえないようだった。
「昨日の花ざかり見た?」
「それは見た!小栗旬かっこよかった」
「水嶋ヒロの方がカッコいいでしょ」
 二人の男の趣味は、断言できるほどに、一致することはなかった。濃い顔立ちの男性が好きなあたしに対し、彼女はさっぱりとした優男が好みだった。同じ俳優について盛り上がった記憶はほとんどない。が、女子というのはそうであっても男の話をする。『毒キノコと食用キノコ』というのが、あたし達の男に対する共通認識だった。ギリギリのところには手を出さないのが良いという意味である。あの頃の男絡みの恋愛について思い出せることは少ない。楽しい時も悲しい時も、いつも隣にいたのは彼女だった。男勝りだったあたしは俄然モテなかったが、彼女は頭も良く、子犬みたいな可愛い顔をしていたから言い寄ってくる男は多かった。それなのに、結局のところ高校を卒業するまで、あたし達は食用キノコには出会わなかった。

「不良とメイドじゃあ」
 たこ焼きを食べ終え、あたしの妹のクラスが制作した、未来の電子機器のコーナーを見て回っていた。勝手に床を掃除してくれるテクニカルクリーナー、これはのちの未来でルンバと呼ばれる電子機器になる。まさに未来予想だ。学生の発想力と言うのはやはり素晴らしいものなのか。そんな展示品を、彼女と二人、ダサいねぇ、なんて大きなお世話を言いながら見ていた時、後ろから男子二人組の友人に声をかけられた。
「ハロウィンか?」
「こっちの台詞よ」
 片方は海賊の恰好、もう片方はこれまたメイド服を着ていた。二人はいつもセットの双子の様な友人だった。彼らとは、あたしも彼女も共通の、中学時代からの知り合いで、時々四人で放課後に地元のゲームセンターに行ったりした。
「心外だよなーおれだって可愛いよ」
「男のメイド服は正直キツイ」
 彼らはそう言って笑った。海賊の方が、俺も女装すれば良かったかな、というと、馬鹿言え、他の奴らを見ろ、すげぇ気持ち悪いだろ、お前もたいがいだよ、と言い合う二人をよそに、あたしは彼女にそっと言う。
「珍種のキノコだな」
「いいとこなめ茸ね」
「加工されてるって意味?」
 あたしの言葉に、彼女が噴き出した。突然笑い出したメイド服の女に、男子たちはのけぞる。
「なんだよ、何か言ったか?」
 二人は、変なやつらだなーと言って笑った。ジャージを着た彼らは、その手に腕時計をしていた。高校生の頃なんて、みんな時計など持っていない。ケイタイでいつも時間をチェックしていた。なるほど、この夢もどうやら正確ではないらしい。だからみんな、同じ様にその手に時計をしているのか。時間を間違えないように。戻る時間を、間違えないように。
「お前ら、午後のファッションショーに出るの?」
 メイド服が聞いてくる。あたしは参加する気など毛頭なく、追手から逃れるためにこうして校舎中を歩き回っている。
「出たくなくて逃げ回ってんの」
「行かないの?」
 あたし同様彼女も、メイド代表としてファッションショーにかりだされていた。彼女は真面目な優等生なので、ボイコットのような不真面目なことはできない。不良ルックや男装、厳ついメイドはこの学校中至る所にいるが、女子の可愛いメイドが歩いているのはあまりない。彼女がクラスメイトに見つかるのも時間の問題だろう。
「あんたの格好、目立つなぁ」
 すると彼女はあたしに可愛くない顔をする。
「諦めて一緒に行こうよ」
 あたしはジャージを羽織った海賊の方に、その上着を彼女に貸すように言った。上半身ジャージさえ着ていれば、追手からの時間は稼げる。彼は散々悪態をつきながら、結局は貸してくれた。代わりに彼女の頭に乗っていたカチューシャを貸すと、意外と気に入ったようだった。そして、後でちゃんと返せよ、俺ら時間だからもう行くわ、と言って、二人は廊下へ消えて行った。

「そこのあんた達、待ちなさいよ!」
 突然後ろから、聞き覚えのあるクラスメイト達の声がした。
「午後からのショー、出てもらうからね!」
 振り返ると、薄影のかかった廊下の端から、何人かがかけてくるのが見て取れた。
「追いかけてきた。暇かよ」
「普段の行いが悪いのよ。観念して行こうよ」
 焦るあたしの顔を見て、彼女は隣で笑っている。あたしはその手をぐっと握り返す。
「ゼッタイいや」
 そして走り出す。あたし達は廊下を全速力で抜けた。教室の窓が過ぎていく。学生たちのざわついた声が聞こえる。
「まって、まってよ」
 階段を二階駆け下りたあたりで、彼女の呼び止める声に、あたしは立ち止まった。
「逃げるなんて良くないわ。戻ろうよ」
「あんた、ショーに出たいの、出たくないの」
 あたしは彼女を問い詰める。彼女は複雑な表情をしている。そしていつものように真面目なことを言う。
「出なきゃならないでしょ?」
「どうして」
「どうして、って。」
 あたしはいつも、彼女のその言葉を飲み込まない。彼女はいつもこうだった。ルールに従う。自分の気持ちは後回しだ。だから、あたしはいつも言う。
「なんでやりたくないことをしなきゃならんのじゃ」
「待って」
 それでもあたしの後ろからついてくる。階段をはね折りて、中庭の犬走りに出る。この先を左に曲がればショーの会場、右に曲がれば校庭に出る。
「どうすんの」
 あたしはもう一度彼女を振り返り、言葉の続きを要求する。
 彼女は一呼吸おいて、ぐっと唇を噛んで、あたしに向き直る。
「出たくない。ファッションショーなんか。わたし、もっとこのまま、文化祭回りたい」
 けど、という言葉。
「わたしだけじゃ、逃げられない」
 あたしは彼女の手を取り外に向かう。
「一緒に逃げるよ」
 あたしが笑うと、彼女も笑った。校庭の先は白い光に満ちていた。

 走りついた校庭には、文化祭の模擬店と小さなステージがあった。これは運動部が主体になってやっていたことだ。あたし達は人ごみの中に紛れ、追手から行方をくらませた。歩きながら、過ぎゆく人達が身につけているいろんな仮装を眺める。
「もったいないと思うわ」
 男装の後輩の集団を眺めながら、彼女が口を開いた。手を繋いだまま離すのを忘れていた。人ごみの中で他愛のない話をしたことを覚えている。
「何がよ」
「あなたの男装。完璧だと思わない?面識ない女子を口説けるわ」
「いいかもね、成功したらデートプランでも考えてくれ」
「わりと上手く行くと思うわ」
 彼女は真剣に考えこんでいる。
「あんたセンスないからなぁ」あたしは揶揄う。「この前だって図書館と海辺だった」
「ねずみ花火、楽しんでたじゃない」
 あたしは彼女をからかうために生きていた。文化祭のこの逃避行は最高の遊びだった。
この時も、逃げた先に面白いことを思いついた。あたしは、彼女の手を引いたまま校庭の真ん中に立った物見台の上に連れていった。順番待ちをしていた王子様コスプレの一年生の椅子からマントをとって羽織り、その連れから女王の冠を奪って彼女にかぶせる。戸惑う彼女の手を引っ張り、告白コンテストをやっていた舞台の最前列に躍り出たあたしは、仰々しく、その前に膝をついた。
「御姫様、いやマイプリンセス」
 場を乗っ取り突然出てきたあたし達には、やじ馬の歓声。彼女は突然のことに引き攣った表情で、あたしを不安そうに見つめていた。メイド服が小賢しい。上に羽織ったジャージが、彼氏のだったら格好もつくだろうに。その浅黒い肌には、白黒の洋服もあまり似合わない。もっと丸みを帯びた身体ならエロいのに、彼女は華奢で、肩幅も広い。
「いつもお美しい。あなたは私の泥中の蓮」
 あたしはその言葉を選んだ。
「愛してるよ」
 本音だったかどうかは、覚えていない。

 そういえば知ってる?と、彼女が勉強の手をとめてあたしを向いた。今にも吹き出しそうな表情だった。
「わたしね、公開告白されたって噂になってるの」
 その言葉にあたしが笑いそうになる。
「昨日、隣のクラスの子に言われたんだけどね、文化祭の時、校庭のステージで知らない男の子に公開告白されたんでしょって。わたし、言ってやったの、その子は、わたしが毎朝図書館で会ってて、昼間に自動販売機の横で座ってしゃべってる相手だって」
 初めてこの話を聞いた時、あたしの友達はめっぽう面白がった。現場を見ていない友人たちも手を叩いて笑ってた。あのお遊びが想像以上の爪痕を残したことに、あたしは最高に満足した。それでも、もしかしたら彼女が傷つくのではないかと思って、あたしが自分からその話を彼女にすることはなかった。そしてある朝、彼女が笑いながら、その話をしてきた。あたしは少なからず驚いたものだ。けれど、あたしはいつも彼女より上手だった。
「酷いなぁ。彼にも相手を選ぶ権利ってもんがあるんだけどねぇ」
「なんですってぇ」
 彼女は憤慨した表情で立ち上がった。椅子から転げ落ちそうになるほど笑っているあたしを見て、彼女もすぐに手を叩いて笑った。すると司書が管理室から三メートル定規を持ってきて、あたし達の脳天に一発ずつ天誅を食らわせた。
「静かになさい。いつもいつも。次こそは出禁よ」
 あたし達は同じ部分を摩りながら、司書が去った後、小声でくすくす笑い合う。
「そもそも、あなたがあんなことするから悪いんじゃない」
「良いビンタもらったよね」
 あの告白ごっこで、周りの人たちが拍手し始めたのをものすごく恥ずかしがって、彼女はその場であたしの顔を思い切り引っ叩いた。あたしは吹き飛んだ。その行動に、周囲は爆笑し、何かのイベントだろうと、大体の人はすぐに去って行った。
「あなたがバカなのよ。まったく、巻き込まれる身にもなってよね」
「あんただって楽しんでるじゃない」
「嫌よ。バカにして」
 彼女は言い放つと、怒った様子で机に向き直った。
あたしは彼女のペンの音に耳を澄ませながら、椅子に寄りかかって図書室をぐるりと眺めた。天窓から先が霞んで見えない。良く見ると司書の人も、周りに座る生徒も影法師のように姿がはっきりとしない。真っ白な図書室。あたしはこの学校が数年後にどうなるかを知っている。
「飲茶って本場ではトローリーで来るらしいよ」あたしは彼女を見ずに言った。「香港に行ったら是非体験したいね」
「そうね」彼女はこちらを見ずに言う。「ノートに追加しておくべきね」
「ねぇ、なんでそんなに真面目に勉強するの?」
「勉強して良い大学に入るため」
「的を得ないね。良い大学に入って、それからどうすんの」
「入ってから考えるわ。良い大学に入った方が、将来の選択肢は多いもの」
「なるほど、賢いね」
「やりたいことが明確な学生なんてそんなに居ないわよ。あなたは珍しいわ」
 あたしはずっと、作家志望だった。生まれてから今までずっと。彼女にそう言うと、そうね、と言われる。彼女はあたしの作家としての価値観を信頼している。彼女と、いつも一緒にいて、いつもふざけた話をしていた。あたしは不真面目で、彼女はいつも真面目だった。誰に振り向かれずとも、やりこなす。ひとつ道を決めたことに対しては、自身のなりふり構わず夢中になる。そういう人だった。だからあたしの役目というのは、いつも彼女の隣にいて、彼女の邪魔をして、笑わせることだった。
「そろそろ時間だわ」
 彼女が言った。その手には腕時計をしていた。気づけば周りに人はいなかった。白い光がこぼれる図書室に、あたしと彼女だけが取り残されていた。
あたしはバッグの中に教科書をしまう彼女を見つめていた。「人間の存在とは、夢と同じような儚いもの。この小さな人生は、眠りによってけりがつくものなのだから」———これが本当に夢なのか、なんだかぼうっとする頭の片隅で考えていた。彼女の、ペンをしまおうと持つ細くて長い指と、光に霞んで白くなっている彼女のまつげを見た。色素の薄い彼女の髪やまつ毛は、光にあたると茶色にうつる。それを見た先生達は幾度となく、黒色に染めるように言ってきたはずだ。ある日そんな習慣にうんざりした彼女が、カツラ疑惑の教師に広言した。『先生も取ったらどうですか』。
 そのことを思い出してくすくす笑うあたしを、彼女は真顔で見ていた。そしてその色と言うのは、言葉では言い表せない、詳しい名前を知らない色をしていた。そういえば、こんな色の髪だっただろうか。
 手を伸ばせば届く距離に彼女がいる。
 今、たとえば彼女の手をとって、ここから一緒に走って行ったら、一体どこへたどりつくのだろう。茶色い毛先が桃色の頬にかかっている。そういえば、彼女はこんな髪型だっただろうか。思い出せない。このまま見つめていたら、ずっとここにいてくれるのではないかと、記憶の片隅で考えた。
「見過ぎ。穴が開くわ」
 あたしはテーブルに頬杖をついたまま、ただ、光に溶け入る彼女を見つめていた。彼女はいつもと変わらず、澄んだ笑顔で薄く唇をあげて、あたしの顔を見て、立ち上がって、カバンを手に持つ。白い光にあたって儚く美しい、その瞬間の彼女を、あたしは生涯忘れることはないだろう。

 ただただ、絶望的に愛しかった。

「それにしても、知らなかったわ」
 彼女があたしを見ずに言った。
「先生から聞いたの。あなた、卒業したら仙台の学校に行くって」
 あたしは彼女を無言で眺めている。
「どうしてよ、作家になる夢はどうしたの?」
 彼女は十一月も早々に、県内の国立大に推薦合格していた。そしてあたしは四月、仙台の外国語専門学校に行った。
「話したよ。あんたが覚えてないだけ」
「嘘よ。あなたの話なら大抵覚えてる」
 あたしは彼女から視線を落とした。
「世界一周の話も?」
 あたし達は約束していた。いつか、二人で世界を回ろうって。
だからあたしは英語を学ぶことを決めた。本当は高校を卒業して小説を書くことに専念したかった。バイトでもしながら。学業に縛られるのは嫌だったし、勉強も嫌いだった。けれど、世界一周のためには、まず必要なのは言葉だと思った。彼女がどれだけその話を現実視していたかはわからない。けれど旅のことを話す二人は、いつも本気だった。
 あたしの言葉を聞いて、彼女は微笑む。
「勿論よ」
 英語、勉強するから、と喉まで出かけた。
 だから、なんだというのだろう。
 今、彼女の手をとって、このまま走り出したら、未来は変わるのだろうか。今ならその手を引いて連れて行ける、世界中のどこへだって連れて行く。

 眩暈のする愛おしさを感じた次の瞬間、あたしはソファの上で、天井を見つめていた。時計の音が、カチコチと耳に響く。彼女をまとった儚い光だけが、脳裏に焼き付いていた。

 高校を卒業してから、二年後の話だ。三月。冬休みで多くの友人が実家に帰省していた。彼女もそうだった。前の晩、電話をした。北極圏から見える星の話をした。あたしは仙台にいて、先輩の卒業パーティに行くところだった。彼女はペットの子犬を探すために、海端の家に戻った。

身体を起こして窓に目を見やると、かつてあの図書室で感じた彼女のぬくもりが光となってあたしを照らしていた。もし夢の中で、彼女の手を取り走っていたら、と思いを馳せる。今まさに手の届く距離にいた彼女の空気を思い出し、噛み締める。
 

 十年前、彼女はすぐに見つかった。家のあった場所からさほど離れていない場所で横たわっていた。その胸の中には同じ体温の愛犬を抱えていた。靴は片方脱げて、全身泥だらけだったが、五体満足だった。出血死だった。彼女のケイタイは、運よく普及した。
 最後の発信履歴は三月十三日、あたしだった。

 あれからまもなく十年が経つ。あたしは明日、最終国の香港を出て、日本に帰る。かつて彼女と共に描いたを、片手に。

Still Breathing 「まだ息をしている」
Image: Katy Perry / I'm Still Breathing


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