遠いところ
2023.7.16 ヒューマントラストシネマ渋谷 スクリーン③
途中からずっと泣いていたし話しかけられて返答できなかったし泣きながら23時の渋谷を歩いて泣きながら電車に乗って帰った
昨年「あのこと」観た後も同じ状態で何も考えられなかったですが今回こそは考えてみせます。
(あらすじ引用したけど全員今すぐ映画館で観てください)
これは確率の話だ。彼女はハズレを引き続けただけであり、本当に何も悪いことをしていないのだ。もちろん教育と一定水準以上の経済力や家庭環境、もしくは非常に強い意志があればアクションを起こすことは可能だが、それが出来ないことを責めることなど誰が出来るというのか。
それなのに彼女は他人に不快なことを言われた時も夫のせいだとか自分は悪くないなどとは一言も言わない。言ったところで理解されず責任転嫁をするなと余計に責められるのがわかっているからだ。また、自分でも自分が母親として十分な養育が出来ていないことなどわかっているからだ。それでも息子を取り返そうとしてしまうのは、息子がいなくなったら、彼女が何のためにボロボロになりながら生き続けてきたのかわからなくなってしまうからではないか。子どもがいなければ、高校も最後まで行けたかもしれない。そのまま彼女の希望通りの昼職にも就けたかもしれない。少なくとも今より必要な金は少なかっただろう。やはり大きなターニングポイントは妊娠と出産の決断にあったと思われる。しかし問題は更に根深い。
沖縄出身の知人が何人かいてよくこういった話を聞くので、これは本当に現実なのだということは知っている。作中にも同じ立場の名も無き女性たちがちらほらと登場しそれを意識させられる。夫クズなだけじゃんと言う人がいそうだなと予想するが、彼らは今17歳で、そんな事態になっている原因は正に教育と社会にある。
カーラジオから流れる「子どもの貧困に取り組みます」と謳う県の政策は笑ってしまうほど響かない。児童相談所では母親本人の更生を手伝うことはできない。
なお、これは沖縄だけの問題では決してない。もう一度公式サイトの文面を引用させて頂く。
生まれた時から当たりくじを引き続け東京で安穏と20年余り過ごした私に何ができるか考える。これからずっと考え続けなければならないと思う。
私は何故か中高生の頃から虐待や待機児童に関する問題意識が強く、厚生労働省に入って私が児童相談所をなんとかする!保育園を増やす!と言っていた。でも東大に落ち、浪人する根性が無かったので一個下のランクの大学に入り、そこからでも十分省庁は目指せたが、大学でいつの間にかかつてのパッションを忘れ、気が付けば全く関係のない職業についてしまった(そういえばですが私はカルチャー完全なる素人です)。今の職業も、日本経済の底上げができると私は信じているので間接的に貧困の改善にはつながるかもしれない。だが、とても間に合わないし、何よりこの映画を観て、そんなことは私がやらなくても誰かがやる、私が取り組まなければならないのは経済などではないもっと別の問題だと思った。
この映画では登場人物が頻繁に「(あんたらには)関係ない」「お前に何がわかる」と口にする。誰しもが一度は思ったことがある台詞だと思う。私がよくこの言葉を強く思っていたのはやはり水商売をやっていた時だった。私の場合当時も金を得る手段は他にいくらでもあった上に現に十分すぎる給料をもらえている今はもう二度とやらないと思われるのでその悲惨さは彼女らと比べるべくもないが、やっていたことは同じことだった。なるべく心を持たない物質になる、人として扱われない、何故か何をしても良いと思われている、そこでの私個人の意志がいかに無意味であるか、想像力がないのではなく彼らが想像する必要がないのだ、身体的な痛み、対価として数枚の紙切れをもらう、その汚い金を使って生きる、たまに騙される、すぐ金がなくなる、性別が違うだけで何故こちら側とそちら側で別れるのだろう……
そうした諦めや怒りを共有し連帯することはできるのだ。性風俗に従事する女性たち。この地獄からそうした仕事がなくなる可能性は絶望的であるが、私は凄惨な連鎖を少しでも食い止めたいと思う。そのためにできることをしたい。彼女たちが自力でできないことを、私が、皆で、しなくてはならない。頑張るよ。
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