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遠いところ

2023.7.16 ヒューマントラストシネマ渋谷 スクリーン③

途中からずっと泣いていたし話しかけられて返答できなかったし泣きながら23時の渋谷を歩いて泣きながら電車に乗って帰った

昨年「あのこと」観た後も同じ状態で何も考えられなかったですが今回こそは考えてみせます。

あらすじ

沖縄県・コザ。

17歳のアオイは、夫のマサヤと幼い息子の健吾(ケンゴ)と3人で暮らし。 おばあに健吾を預け、生活のため友達の海音(ミオ)と朝までキャバクラで働くアオイだったが、 建築現場で働いていた夫のマサヤは不満を漏らし仕事を辞め、アオイの収入だけの生活は益々苦しくなっていく。
マサヤは新たな仕事を探そうともせず、いつしかアオイへ暴力を振るうようになっていた。

そんな中、キャバクラにガサ入れが入り、アオイは店で働けなくなる。
悪いことは重なり、マサヤが僅かな貯金を持ち出し、姿を消してしまう。仕方なく義母の由紀恵(ユキエ)の家で暮らし始め、昼間の仕事を探すアオイだったがうまくいかず、さらにマサヤが暴力事件を起こし逮捕されたと連絡が入り、多額の被害者への示談金が必要になる。切羽詰まったアオイは、キャバクラの店長からある仕事の誘いを受ける―

公式サイトより引用

(あらすじ引用したけど全員今すぐ映画館で観てください)

これは確率の話だ。彼女はハズレを引き続けただけであり、本当に何も悪いことをしていないのだ。もちろん教育と一定水準以上の経済力や家庭環境、もしくは非常に強い意志があればアクションを起こすことは可能だが、それが出来ないことを責めることなど誰が出来るというのか。
それなのに彼女は他人に不快なことを言われた時も夫のせいだとか自分は悪くないなどとは一言も言わない。言ったところで理解されず責任転嫁をするなと余計に責められるのがわかっているからだ。また、自分でも自分が母親として十分な養育が出来ていないことなどわかっているからだ。それでも息子を取り返そうとしてしまうのは、息子がいなくなったら、彼女が何のためにボロボロになりながら生き続けてきたのかわからなくなってしまうからではないか。子どもがいなければ、高校も最後まで行けたかもしれない。そのまま彼女の希望通りの昼職にも就けたかもしれない。少なくとも今より必要な金は少なかっただろう。やはり大きなターニングポイントは妊娠と出産の決断にあったと思われる。しかし問題は更に根深い。
沖縄出身の知人が何人かいてよくこういった話を聞くので、これは本当に現実なのだということは知っている。作中にも同じ立場の名も無き女性たちがちらほらと登場しそれを意識させられる。夫クズなだけじゃんと言う人がいそうだなと予想するが、彼らは今17歳で、そんな事態になっている原因は正に教育と社会にある。

沖縄では、一人当たりの県民所得が全国で最下位。子ども(17歳以下)の相対的貧困率は28.9%であり、非正規労働者の割合や、ひとり親世帯(母子・父子世帯)の比率でも全国1位(2022年5月公表「沖縄子ども調査」)。さらに、若年層(19歳以下)の出産率でも全国1位となっているように、窮状は若年層に及んでいる。

公式サイトより引用

カーラジオから流れる「子どもの貧困に取り組みます」と謳う県の政策は笑ってしまうほど響かない。児童相談所では母親本人の更生を手伝うことはできない。

なお、これは沖縄だけの問題では決してない。もう一度公式サイトの文面を引用させて頂く。


『遠いところ』で描かれているのは、沖縄における局地的な社会問題などではない。日本中のどこでも今まさに起こっている事象である。愛する人からの暴力は、地獄のような現状から必死で逃げる道を間違えてしまうのは、すべて自己責任なのだろうか。社会の理不尽と不条理を突きつけられ、悲痛な想いを抱いて絶望しながらも、もがくアオイの姿には、自らの選択肢が正しいかどうかの想像力を持てない少女たちがいることを思い知らされる。主人公・アオイの間違ってしまった、それでも必死に生きた日々の物語を体感して、生まれ落ちた環境が人生を決めるすべてであって良いのだろうかと、今一度問いかける衝撃作がこの夏誕生した。

公式サイトより引用


生まれた時から当たりくじを引き続け東京で安穏と20年余り過ごした私に何ができるか考える。これからずっと考え続けなければならないと思う。

私は何故か中高生の頃から虐待や待機児童に関する問題意識が強く、厚生労働省に入って私が児童相談所をなんとかする!保育園を増やす!と言っていた。でも東大に落ち、浪人する根性が無かったので一個下のランクの大学に入り、そこからでも十分省庁は目指せたが、大学でいつの間にかかつてのパッションを忘れ、気が付けば全く関係のない職業についてしまった(そういえばですが私はカルチャー完全なる素人です)。今の職業も、日本経済の底上げができると私は信じているので間接的に貧困の改善にはつながるかもしれない。だが、とても間に合わないし、何よりこの映画を観て、そんなことは私がやらなくても誰かがやる、私が取り組まなければならないのは経済などではないもっと別の問題だと思った。

この映画では登場人物が頻繁に「(あんたらには)関係ない」「お前に何がわかる」と口にする。誰しもが一度は思ったことがある台詞だと思う。私がよくこの言葉を強く思っていたのはやはり水商売をやっていた時だった。私の場合当時も金を得る手段は他にいくらでもあった上に現に十分すぎる給料をもらえている今はもう二度とやらないと思われるのでその悲惨さは彼女らと比べるべくもないが、やっていたことは同じことだった。なるべく心を持たない物質になる、人として扱われない、何故か何をしても良いと思われている、そこでの私個人の意志がいかに無意味であるか、想像力がないのではなく彼らが想像する必要がないのだ、身体的な痛み、対価として数枚の紙切れをもらう、その汚い金を使って生きる、たまに騙される、すぐ金がなくなる、性別が違うだけで何故こちら側とそちら側で別れるのだろう……
そうした諦めや怒りを共有し連帯することはできるのだ。性風俗に従事する女性たち。この地獄からそうした仕事がなくなる可能性は絶望的であるが、私は凄惨な連鎖を少しでも食い止めたいと思う。そのためにできることをしたい。彼女たちが自力でできないことを、私が、皆で、しなくてはならない。頑張るよ。




作中に出てきたA&Wの女性用トイレに貼ってあった案内

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