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「飼う」をキーワードに、現代社会を切る~『飼う:生命の教養学13』(慶応義塾大学教養研究センター)~

文系・理系の枠を超えた講座「生命の教養学」の書籍化第13弾です。


印象に残った言葉を、備忘録代わりにまとめておきます。


「ペットしか見えない都市空間ができるまで 近代ヨーロッパにおける動物たちの行き(生き)場」(光田達矢)

「動物虐待」の定義はしばしば恣意的で、社会的に発言権のある人間たちが決めがちです。しかも、一部の階層と動物虐待を結びつけることで、その階層特有の問題として語られてしまう危険性を秘めています。その行き過ぎた現代における身近な例として、日本に対する反捕鯨運動が挙げられます。この場合、民族が階層にとってかわり、鯨という一部の哺乳類の扱いが過剰な注目を浴び、日本人が「野蛮」であるかのような印象が生じます。構図として「動物保護先進国」である西洋社会が、「動物保護後進国」である日本を上から注意するようになっていて、文明度の高い人間が、文明度の低い人間を指導するわけです。

現在はともかく、19世紀にはアメリカは捕鯨を行っていて、しかもそのやり方は鯨油を採るための皮にしか興味がなく、あとはすべて捨てていたわけです。それより日本の伝統的な、頭からしっぽまで余さず鯨を使い切るやりかたの方がましだと思ってしまいます。


鉄道が貨物として中央と場に動物を運搬するようになると、産業動物の姿を道路などで見かけなくなります。さらに、基本的に夜に運ばれるので、誰にも気づかれずに、動物たちが殺されていくようになります。そうすると、消費者が食用動物の死について向き合う必要性がなくなり、動物たちの命について考えなくてもよくなります。

この一節には、考えさせられました。私たちが毎日食べている肉が、生きた動物のものであることを忘れがちな理由の1つが、鉄道だとは。確かにごくまれに、トラックで牛などが運ばれている様を目撃することがあると、その時だけは、今この瞬間は生きている牛さんがお肉になることを実感しますものね。


あとナチスが、どの国よりも早く、動物実験の禁止をも盛り込んだ動物保護法を制定させたというのには驚きました。と殺方法の改良、家畜動物の運搬への人道的配慮の義務付けなど、動物福祉の向上に努めたそうです。「動物には動物としての固有な価値があると考え、人間とは独立した存在として保護を受ける権利がある」としていたからです。とはいえ、「国家と科学の発展に寄与するような研究なら例外を認め」ていたとか。


ナチスは、現代文明が堕落し荒廃している原因を、極端な都市化に求めたからです。ユダヤ人を蔑視したのも、金融機関など都市経済と密接に関係する職業に多く就いていたからです。ナチスは、健全な社会を取り戻すには、都市化をリセットする必要があると信じ、原状回復を訴えました。動物にも同じようなことを求めました。つまり、動物らしさを取り戻すことを目指したのです。

これも、興味深い視点でした。


「ペットとのコンパニオンシップから得られるもの」(濱野佐代子)

面白かったのは、アメリカで動物介在介入(アニマルセラピー)の一環としてやっている、R.E.A.Dプログラム。「活動に参加した子どもが犬に本の読み聞かせをするもの」です。「犬は(中略)聞いているようにふるまってくれるので、犬が子どもにとって良いモチベーションになって、子どもが楽しんで本を読み聞かせることができる」とか。


「チョウザメという食文化を作る戦略」(平岡潔)

いま魚と野菜を一緒に「飼う」Aquaponicsの実験をしています。チョウザメの水槽の上に水耕栽培のベッドを置き、トマトやレタスなどを植えて収穫します。(中略)魚を育てているので、農薬を入れると魚が死んでしまうので使えません。つまりオーガニック野菜ができる。魚も水替え頻度が低下するため、水道代やポンプ代などが削減できます。こういうウィン・ウィンな関係の事業です。

これぜひ、商業ベースに乗ってほしいです。


「国際競争のなかでの日本の養豚生産の現状と諸問題」(纐纈雄三)

淘汰というのは食肉工場に出荷されて、お肉になることです。

さらっと書かれたこの一文、結構衝撃でした。


三元豚というのは、三種類の品種の豚を掛け合わせた一代雑種の交雑豚のことです。

これ、知りませんでした。


「飼うことの倫理学」(奈良雅俊)

「種差別」をキーワードにして展開された動物解放論では、平等の原則を(人間の間だけでなく)動物にも適用すべきだという考え方が示されました。人間の社会ではほとんどすべての人が平等原則を支持しています。この道徳原理を人間以外の種にまで適用しろ、とシンガーは主張しました。苦しみを感じる能力を持つという限定条件つきとはいえ、動物の利益を人間と平等に配慮すべきであるというのです。

種差別(スピシーシズム)は、「人間による一定の動物種に対する差別あるいは搾取。人間は動物よりも優れているという前提にもとづく」だそうです。


「古代ローマの奴隷 境遇の多様性と複雑性」(大谷哲)

結末の言葉が、大変重いです。

奴隷制というものが否定されている現代日本は、明らかに古代ローマ帝国とは違う文明であるはずです。しかし、私たちは常に、誰もが人間扱いされていると言い切れる社会に生きていると言えるでしょうか。私たちの社会では、誰かが「飼われ」たり、「捨てられ」たり、していないでしょうか。

ブラック企業、技能実習生など、考えねばならない問題は山積みです。


「日本における人身売買を考える 問われていることは何か」(原由利子)

人身売買は、一部の悪い人たちだけの問題でしょうか。この問題に関わってきて思うことは、それが日本の誰にでもつながる身近な問題だということです。(中略)安いことがすべて悪いわけではありませんが、その奥に隠されていることを知る視点が大切だと思います。昨日出したクリーニングは、今日食べたレタスは、技能実習生の手によるものかもしれません。気がつかないうちに搾取の恩恵を受けて社会が成り立っているともいえるのではないでしょうか。

目を背けてはいけない指摘ですね。


みな、職業も社会的な立場も違い、得意なことも違う。そのなかで自分にできることをほんの少しでもやり始める。そういう癖をつける。――そこからものごとが変わっていくのではないかと思います。

とても共感できます。


「ナチズムにみる欲望の動員」(田野大輔)

ナチズムは大衆運動です。この運動に加わった人たちは、多かれ少なかれ積極的にヒトラーを支持していました。ナチズムは単なる専制支配ではありません。近年の研究では、「賛同による独裁」という見方が提示されています。

「賛同による独裁」という見方は、初めて知りましたが、納得がいきます。


大きな権力に従うことで自分も小さな権力者となり、虎の威を借りて力を振るうことに魅力を感じているのです。
権威に服従している人は、いわば「道具的な状態」に陥っています。自分の意志で行動しているのではなく、上の命令者の意志の道具になっているのです。この場合、彼らは客観的に見ると従属的な立場にいるのですが、服従している本人の内面では、自分が何をしても責任を問われないという、解放感とでも言うべきものが生じています。逆説的なことに、服従によってある種の「自由」が感じられるようになっているのです。

「大きな権力」を持つ「上の命令者」以上に、最悪ですよね。こういう風には絶対になりたくないです。


ヒトラーという権威に従う小さな権力者たちが、多くの同調者や傍観者を巻き込みながら作り上げる多数派の社会、それがナチスのいう「民族共同体」です。

同調者や傍観者にも、もちろんなりたくないです。


休暇を過ごすヒトラーに焦点を当てた写真集が数種類あり、それぞれ数十万部発行されていました。(中略)そういう写真集で強調されているのは、ベルリンで公務に就いている時の厳しく険しい顔をしたヒトラーではなく、休暇をゆったりと過ごしている彼の打ち解けた人間的な表情です。(中略)「我々が知っているヒトラーは厳しい顔をした総統だが、私生活ではこんなに温和な表情をみせることもある」というギャップが、ここでは強調されています。(中略)当時のドイツ人にとって、ヒトラーはまさにアイドル(偶像)だったと言えるでしょう。

不謹慎な表現ですが、「ギャップ萌え」が「ヒトラーへの信頼感、愛着の秘密」だったわけですね。だからこそ、「じつはナチ党の政策に対しては不満を持つ人が多かったのです。国民の多くはヒトラーをナチ党とは別物と見ていて、彼の言うことには明確に賛同を示していた」わけです。


ミルトン・マイヤーの『彼らは自由だと思っていた』(中略)では、彼らは一見家畜のように独裁者に従わされているが、内心では自分の利益を追求する機会が与えられて、「自由だと思っていた」のだという見方が提示されています。(中略)権威への服従は人びとを道徳的な拘束から解放する側面があります。その意味で、服従者は単に受動的に従っているわけではありません。ナチズムにおいても、支配者と服従者が一種の共犯関係にあったと言うことができるでしょう。どちらが加害者でどちらが被害者かという問題ではなく、お互いがこの関係を支え合うような状態にあり、それが戦争やアウシュヴィッツという悲惨な結末を生んだのではないかと思います。(中略)私たちは、一見「飼われている」ように見える服従者も内面では「自由」を感じており、だからこそ「飼う」側の人たちに積極的につき従っていたのではないかと考えるべきでしょう。

長い引用となりましたが、心に留めるべき指摘だと思います。


「『もう一つの臓器』腸内細菌叢の機能に迫る」(福田真嗣)

脳の発達やそれに伴った行動変化を、腸内細菌叢が脳腸相関を介して促しているとすると、私たちはおなかのなかに腸内細菌叢を飼っているのではなく、腸内細菌叢によって飼われているという考え方もできるわけです。

なるほど。


全体として、シリーズのこれまでの既刊のものと同様、勉強になるし、いろいろ考えさせられました。


見出し画像には、「みんなのフォトギャラリー」で「飼う」で検索したら出てきた可愛いイラストを使わせていただきました。産業動物や実験動物、ナチスの話など、本書自体は内容が重いので、見出し画像だけでも可愛くしてた次第です。




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