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仏教が目指すのは~『梅原猛の授業 仏になろう』(梅原猛)~

図書館の返却された本のコーナーでたまたま目につき、読んでみました。


朝日カルチャーセンター京都での講義をまとめたもので、「仏教徒は結局、『仏になる』ことだ」(p.11、以下ページ数は単行本のもの)という観点に最初は驚いたものの、読みすすめる内に納得がいきました。


以下、印象に残った箇所を備忘録代わりにまとめます。


観音さまは、本当は如来さんになれるんだ。なれるけど、ならない。なぜかというと、民衆を救うためです。如来さんになって向こうへ行っちゃったら民衆を救えないから、民衆を救うために、民衆と同じ現世にいて、民衆と同じ格好をしている。

p.15


浄土教は、(中略)成仏はむずかしいが往生はやさしいと説く。往生というのは、成仏の前段階と考えていいでしょう。

p.27


親鸞さんは、こういうことも言っています。南無阿弥陀仏によって自分は往生できる。でも往生できるばかりじゃなくて、またこの世に帰ってくると言うんです。二種廻向と言いまして、阿弥陀さまのおかげで極楽へ行けるけれど、行ったきりで極楽で安穏として生きるのは仏教ではない、と。
仏教では自利利他と言います。極楽で安穏にしているのは自利です。そこには利他行が欠けている。極楽から、もう一度この世へ帰って来て悩める衆生を救う。それを還相廻向と言いますが、生まれ変わってまた帰ってくる。これは法然の信仰ですが、親鸞は特に強調しています。

p.30

なお二種廻向の注釈も引用しておきます。

浄土思想でいわれる、往相(おうそう)・還相(げんそう)と呼ばれる二種類の廻向(功徳をほかにふりむけること)のありかた。往相は、この世で功徳を他のものに与え、ともに極楽往生を願うこと。還相は、浄土から再びこの世に戻り、功徳をふりむけて他のものを仏道に導くこと。

p.45


禅というのは、中国の唐の時代、廃仏によって寺院も経典もなくなった時代に生まれた仏教です。仏教を守るには、人間があればよい。裸一貫の人間こそが仏だ。経典も要らない。寺院も要らない。そういう廃仏によってできた仏教が禅です。
禅は、仏さんをつくらないでしょう。寺にはご本尊の仏さんが必要ですから、禅寺ではお釈迦さんを祀ったりしていますけれど、本来は仏さんを祀りません。禅寺が祀るのは、主として頂相という祖師の像です。

p.34


京都には日蓮宗の寺が多いですね。京都の証人は大体が日蓮宗だった。なぜかというと、日蓮は行動的なんです。どちらかというと禅を受け入れたのは武士で、浄土宗は農民、日蓮宗は商人。行動的なところが商人に気に入られたんですね。

p.37~38


東大寺に入るところに八幡神があるでしょう。宇佐八幡神は応神天皇が祀られたんですが、その八幡神が東大寺建造のとき奈良の都にやってきて、八百万の神を代表して東大寺建立を祝福した。(中略)
東寺の南門に灌頂院という建物がありますが、灌頂院の東に鎮守八幡宮があります。そこに有名な僧形八幡の像がある。八幡さんは神さまですから、坊さんの格好をしてはおかしいんですけど、坊さんになった八幡さんの像があるんです。
また京都の近くには、空海のいた乙訓寺があります。そこには、首から上は空海で、下が八幡さんという、八幡さんと空海が合体した像があるんです。これは日本に一つしかない像ですが、神と仏が合体したことを示しています。これは神仏習合を形で表したものですね。

p.59~60

これらはいずれも初耳でした。特に乙訓寺の像は、ぜひ見てみたいです。


明治時代になりまして、政府が廃仏毀釈の政策を取って仏教は否定されました。特ににらまれたのが、浄土宗と南禅寺派の禅宗です。浄土宗の知恩院は徳川家康を祀っています。政府は、浄土宗をつぶそうとした。その時に浄土宗は明治政府に、どうかつぶさないでくれと頼んだ。そして明治政府は浄土宗の東京の本山、増上寺に天照大御神をはじめとする神さまを本尊として祀ることを強要したのです。

p.93~94

ひどいことをやりますね。


日本列島にはもともと縄文人が暮らしていて、弥生人は後から入ってきた。『古事記』を見ると、噓を言って相手をだますのはたいてい大和朝廷側ですね。
神武天皇でも、ヤマトタケルでも、必ずだまし討ち。土着の縄文人はだまされてばかりです。シャクシャインの乱でも、アイヌは同じようにだまされた。「和睦しましょう」と宴会をやっている時に、皆殺しにされてしまう。

p.102~103

なるほど。


私は、税金も一種の布施ではないかと思いますね。税金は布施を義務化したものだと考えられます。(中略)国や地方自治体に与えることによって、人々に与える。一種の布施なんです。

p.118

これ、同感です。布施だからこそ、税金の無駄遣いがされないよう、監視する必要があるわけです。


ものを与えることだけが布施ではないですから、小学校の先生が子どもに教えるのも布施です。布施というのは、もらう以上に与えなくてはいけないから、自分がもらっている給料以上のものを子どもに与えなくてはならない。

p.118

私も中高生相手に布施をしております(多分)。


阿弥陀さまは法蔵菩薩という菩薩だったんですが、四十八の願を立てて、難行苦行をなしとげたらこの願も成就するに違いないと言って難行苦行に入った。
法蔵菩薩の絵像のなかに、あばら骨が浮き出ている苦行の像があります。苦行して、悟りを開いて、願が成就して仏になった。その願の十八に、念仏を唱えれば誰でも極楽往生できるとあります。それが十八願です。それが本願です。

p.146

これ、正確に理解していなかったので、分かりやすかったです。


阿弥陀さまは、念仏を唱えれば極楽浄土に往生させてくれます。これは往相廻向と言って、往きの廻向です。ところが、自分一人が極楽浄土で安閑としていてはいけない。もう一度、帰ってくる。それが還相廻向です。

p.150

ここに見られるように、梅原さんは全8回の講義の中で、同じことを何度も繰り返し述べています。だからこそ、聞いている人も読む人も次第に理解が深まっていくかと思います。


質屋さんというのは、東北の貧しい村の貧乏人をいじめることになる。それでありながら浄土真宗の信者だというお父さんに、心のなかで厳しい批判を持っていたんだと思います。賢治は、そんなお父さんへの批判を口では言いません。ただ、今の浄土真宗の教えには利他の行が不足していると考えたんだと思います。

p.150

往相廻向だけ強調する近代の浄土真宗には利他行が足りない。仏教の中心は利他行だ。そう考えて、賢治は日蓮宗の信者になったのだと思います。
『法華経』のなかに常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)という仏さんがあります。人からはできんぼうだと思われて、軽く見られている。けれども、どんなに馬鹿にされても合掌している。人のためにはどんなことでもする。そういう常不軽菩薩が賢治の理想ですね。

p.151

これらの賢治への解釈は、なかなか興味深いです。他の箇所では賢治を「釈迦の教えを広める人として、地の中から湧いてくる地湧(じゆ)の菩薩」(p.39)と表現していました。


摂受:折伏に対する語で、相手の立場を認め、おさめとりながら導いていくやり方のこと。経典などでは摂受は折伏の次の段階と考えられている。

p.164

生徒と接する上で、摂受を心掛けたいものです。


キルケゴールが皮肉を言っていますが、イエスは一生かかって十三人の弟子しかできなかったが、パウロは一日で百人の弟子をつくった。浄土真宗でも、親鸞は一生かかって数十人の弟子しかできなかったが、蓮如は何万人もの弟子をつくった。だから、教祖と布教者は別です。宗教というものは優れた思想家である教祖と、実践的な布教者がいて初めて大きくなる。

p.175

今、ちょとずつ「使徒言行録」を読み進めているので、パウロについて学んでいるところです。


涅槃にも有余涅槃と無余涅槃があります。「涅槃に入る」と言っても、生きているうちは有余涅槃といって、愛執や業を脱することがなかなかできない。死んで初めて無余涅槃に入る。

p.185


苦しんでいる人間を救おうとする人間を菩薩と言います。大乗仏教は、如来になることがむずかしいなら菩薩になれ、と言います。山奥に引っ込んで、ひとり悟りを開こうとする仏教徒を攻撃して、民衆のなかに入って民衆の苦を救えと言います。

p.198


華厳には「入法界品(にゅうほっかいぼん)」という章があって、善財童子という道を求める童子があちらこちらの菩薩を訪ね、道を聞く話があります。(中略)そのように訪ねる菩薩の数が五十三あるということで、東海道五十三次はそのような『華厳経』の思想によってつくられたものだと言われています。

p.210

善財童子の注釈も、控えておきます。

生まれたときに無数の宝を出現させたことから善財と呼ばれたという。長者の息子だったが、文殊菩薩の説法に心を動かされて、さまざまな菩薩や聖者に会うための旅に出る。

p.216

だから渡海文殊に善財童子がいるのかー。


盧舎那仏と大日如来が同じであることも、分かっていませんでした。


最後の講義が「円空の語るもの」だったのですが、津島市の地蔵堂の千体地蔵と関市の高賀神社の狛犬は見てみたいなぁ。高山市の桂峯寺の十一面観音は、脇侍の一人が善女龍王像なのは良いとして、もう一人が本来であれば善財童子なところが今上皇帝像(東山天皇)って、すごいですね。


ところどころ、その解釈は違うようなというところもあったものの、全体としてとても勉強になりました。


見出し画像は京都の萬福寺の羅漢さんの一人です。如来はおろか、菩薩になるのも難しいですが、せめて羅漢(修行者)を目指したいものです。




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