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古い本だが勉強になった~『東南アジアの国家と住民』(菊池一雅)~

この本は家にあったものです。1983年発行ということで大変古く、もちろん絶版なわけですが、部分的に役に立つところがあったので、備忘録代わりに記事にしておきます。


14世紀からカンボジアの国はタイの支配下に入ったが、民衆はその時から森の中に逃れ、人里離れたところに30人ほどの単位でプムという独特な農業社会を形成していた。そうした社会は、19世紀にフランス領となるまで比較的長くつづいた。タイの植民地のときは都市はほとんど存在せず、国王の居住地のみがごく小さな都市らしい形を持つ程度であった。

p.99

第2次大戦後独立し、その後1955年のシハヌークによるサンタム体制(社会主義人民共同体)の時になると、プノンペン市に住むかれの周辺には、地主、高利貸、高級官僚、軍人等々が、アメリカの援助金をもとに、次第に複雑な社会を構成するようになった。つまりかつての自給自足に近い経済・社会機構は、地主・小作人の関係を中心として、それに華僑資本や、外国からの援助をわがものとする官僚などが発生し、多くの特権階級がつくられるようになった。

p.100

ポル=ポトの民主カンプチアの支配の下では、「一夜にして首都を消滅させ」ました。ソ連、中国、北朝鮮など、他の社会主義国では都市を消滅させたりはしなかったのに、なぜカンボジアではそのようなことが起きたのかと思っていました。「農民を高利でしばった華僑や、欧米寄りの政府関係者、高級役人等の住む都市は諸悪の源として否定された」とありましたが、プムの伝統に基づく都市への憎悪もあったのかもしれませんね。

ちなみにこの本が書かれた当時、まだポル=ポト政権による自国民の虐殺の実態がまだ十分明らかになっていなかったのか、そのことにはいっさい触れられていません。


ASEANの母体となったASA(東南アジア連合、The Association of Southeast Asia)については、この本で初めて知りました。「1961年から67年まで機能した地域協約機構」で、指導者のマレーシアのラーマン首相は、「この機関は反西側、反東側のブロックではない。政治的なものではなく……それは純粋に東南アジアの経済と文化の協力であり……」と主張したそうです。
「東南アジアの福祉・経済・社会・文化の発展を目的として、自力でこの地域を貧困から救うこと」を目指すものでした。具体的には、「東南アジアだけで共同市場をつくること」、「入国ビザの手数料を廃止して、旅行者に便利を与えること」を目指したそうで、実現こそしなかったものの、ヨーロッパの統合の発想に通じるものがあります。
マレーシア、フィリピン、タイしか加わらなかったものの、「タイ(仏教)とフィリピン(キリスト教)、マレーシア(イスラム教)が、宗教をこえてはじめて一堂に会したものでもあった」とありました。ASAがそのまま残り、かつ加盟国が増えていけば、戦後の東南アジアには、また別の道もあったのかもと思いました。
実際には1967年に結成されたASEANは、ヴェトナムを仮想敵国とする反共組織になってしまいました。1984年に、改めて経済政治協力組織に転換したとはいえ、ASAの理想とはまだ距離がある気がします。


私がちょっと気になっている、クラ地峡(クラ運河)の話も出てきました。クラ地峡はマレー半島の付け根にあります。

もしここに運河を通せば、マレー半島を迂回する必要がなくなるわけで、時間的にもコスト的にもメリットがあります。しかし帝国主義の時代、イギリスは「極東運営の最大拠点」だったシンガポールの地位の低下、オランダはオランダ領東インド(今のインドネシア)が抱えるマラッカ海峡の地位の低下をそれぞれ恐れ、クラ運河の建設に反対しました。
一方で乗り気だったのは、フランスです。仏領インドシナ(今のヴェトナム、ラオス、カンボジア)に「容易に軍艦を送ることができると考え」たからです。「1881年には、レセップスらによるクラ地峡の調査が行われた。次いで同83年には、ベリオンらの調査隊を派遣した。しかしタイを緩衝国として英・仏両国の利害対立をやわらげようとすることになると、フランスの運河熱も一応鎮まってしまった」。
クラ地峡を抱えるタイもまた、乗り気でした。「すでに1793年のラーマ1世のとき、海上からビルマに攻め入ろうとしてここの運河開発の計画があった。そして、もし運河がつくられれば、軍事のみならず、流通・経済面でもタイの繁栄に大いに貢献するだろうと思われた。だが当時はこれは夢物語であった」。
戦後、タイは本腰を入れてクラ運河開削を目指すようになりますが、必要となる巨額な資金などがネックとなり、いまだ実現していません。

なおクラ地峡(クラ運河)については、以下の記事でも触れています。


「国境とは、実に戦争か平和か、諸国民の生か死かの近代的な係争問題がその上にかかっている剃刀の刃である」

カーゾン卿、『国境論』、小原敬士訳

引用されていたこの言葉も、今のウクライナ情勢と重ね合わせると、重みがあります。なおカーゾンは、インド総督として1905年にベンガル分割令を提案し、また第1次世界大戦後には復活したポーランドの東部国境としてカーゾン線を設定した人物です。


近年話題の「南海諸島」についても、基礎的なことを整理できました。なお「南海諸島」という呼称は、ウィキペディアさんによれば「主に中華人民共和国で用いられる総称」です。


南海諸島は東沙諸島、中沙諸島、西沙諸島、南沙諸島からなり、「中華人民共和国が成立して間もない1951年8月15日に、中国は東沙・中沙・西沙・南沙群島すべてが正式に中国領土であることを宣言」しています。
なお本書の中では「東沙群島」をはじめ、すべて「群島」で呼ばれていますが、現在一般的には「東沙諸島」などと呼ばれています。ちなみに「諸島」と「群島」の違いですが、英語では両者の区別はなく、単にislendsです。日本語では諸島は「その地方に散在する、いくつかの島々」であるのに対し、群島は「海洋の一定の水域にあり、共通性を持つ多くの島々の称」ということになります。


東沙群島は中国に近いためか、その帰属をめぐってはあまり問題はない。中沙群島は、まだほとんどが海中にあるため、これまた問題は少ないようである。

p.184

東沙諸島について「あまり問題はない」としていますが、現在東沙諸島を実効支配しているのは中華民国(台湾)です。まぁ中国的には、台湾は中国の一部の「台湾省」ですが。


南海地域は古くから北と南とを結ぶ、南シナ海の交通路であったが、暗礁など多いため、交通条件はあまりよくなく、小島はわずかに漁業基地などとして季節的に利用されるにすぎなかった。
もっとも、時代が経過するにつれて、島に眠るグアノは、農業にとってこの上もない肥料であることがわかると、島の利用価値も出て、燈台などももうけられるようになった。

p.201

グアノは鳥の糞が集積したものですが、「南海諸島のグアノは鳥糞に加えて、さらに長い間に鳥の屍体が集積され、それが熱帯の暑さのために、地下のサンゴ礁のリン酸石灰とともに化学作用をおこし、燐に富んでいる」とのことです。なお「グアノは肥料はもとより、アスピリンや強心剤の原料ともなる」そうです。グアノ以外に、タイマイ(べっ甲がとれる)やホラガイ(ボタンの材料)などの海産物や熱帯の果物等もとれます。島によっては真水を得ることもできます。

「しかし最近、なんといっても、この南海諸島をめぐっては石油の話題」ですし、天然ガスも眠っています。

また東沙・西沙・南沙群島は軍事上の価値を増している。かつて日本軍の南進基地がつくられたが、最近は中国、ベトナム、フィリピン、マレーシア、台湾などがこの南の群島を占領している。
加えるに、近年200カイリの領海の問題がある。これは領土としての島を起点として計算される。ここにある多くの島々は、面積こそ小さいが、これによって国家の主権の及ぶ範囲は広くなる。このことは、とりわけ南沙群島沖に有望視されている石油資源の点からみると、きわめて大きな意義があるといえよう。

p.202

西沙諸島については中国の他にベトナムが領有権を主張しています。

12の南沙群島はそれぞれベトナムが6つ、フィリピン5つ、台湾1つ(この島は太平島で200人の海兵隊が常駐している)の領有権を主張している。それに1983年6月マレーシア軍が南沙群島の弾丸礁を占領し兵隊を常駐させている。

p.169


古い本といっても侮れず、なかなか勉強になった1冊でした。



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