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【読書】苦手意識が薄らいだ~『グリーン・グリーン』(あさのあつこ)~

私は個人的に、あさのあつこの作品が苦手です。苦手と言いつつ、結構な冊数を読んでいるのですが、ある段階で「あさのあつこの作品は、もう原則読まない」と決めました。

もちろん私が読んだ作品の他に、良いものがたくさんあるであろうことは承知です。でも読める本の冊数には限りがあるので、苦手な作者の作品を読む時間を、他の作者の作品を読む時間に当てた方が良いと思ったので。

ですがこの「グリーン・グリーン」シリーズは、たまたま作品紹介を読み、ちょっと面白そうだと思ったので、読むことにしました。

↑kindle版


読んですぐ、「うわ、やっぱり」と思いました。私があさの作品が苦手な理由の1つが、登場人物の名前です。「No.6」シリーズが代表的ですが、何か登場人物の名前が凝りすぎで、あざといんですよね。今回も主人公が翠川真緑(みどりかわみどり、通称グリーン・グリーン)、同僚の先生が雪ダルマを思わせる豊福有希子、そして生徒の名前も、かなり凝っています。そもそも「中学の時からグリーン・グリーンって渾名」って、そんな長い渾名が中学・高校・大学・社会人を通してずっと付くかいな、と思ってしまいました。最初は「グリーン・グリーン」だったとしても、すぐに略されて「グリグリ」とかになりそう。


一方で、以前読んでいた時との違いも感じました。私があさの作品が苦手な理由その2が、もうちょっと書き込んで良いというか、書き込んでほしいところを書き込まないことなのですが、今回はその不満は感じませんでした。もちろん書き込みすぎてもおらず、良いバランスかな。


そろそろ、作品そのものについて書きます。この作品は、地方の農林高校に新任として就職した真緑の、教員としての成長物語なので、同業者として「分かる分かる」というところや、「それはダメでしょ」と思うところが、たくさんあります。


生徒たちはおとなしく、一応、授業も受けている。しかし、本気で耳を傾けている者はほとんどいないのでは。本気じゃないから、静かなのだ。空っぽの静かさ。
薄々とは気が付いていた。
授業をおもしろがり、授業に引き込まれての静けさではない。生徒たちの気質がおとなしく、穏やかだから、辛うじて授業が成り立っているだけだ。

p.78(以下、ページ数はハードカバー版)

これ、よく分かります。真緑はその後、自分の授業の問題点に気付くことになりますが、問題点に気付いても、それをすぐに改善できるかは、別問題なわけで。


印象に残った言葉。


人はそう簡単に変われないし、たやすく成長もできない。でも、前を向くことはできる。前に一歩、足を踏み出すことはできる。

p.57


「後を継ぎたい人がいるのに諦めて、無理にサラリーマンになって、それで後継者がいなくなって廃業って……、矛盾してますよね」
(中略)
「そもそも、酪農で食っていけれんちゅうのが矛盾やろ。怠けとるわけでも、失敗をやらかしたわけでもない。真面目に一生懸命に働いて、働いて……ほんま、家畜相手やと盆も正月もねえからなあ。一年一日の休みもなく働いて、食えんてどういうことなんか」

p.139~140

地理を教える時には、農業における後継者不足の問題を扱うこともありますが、その理由として、農業の大変さとか、後継者となるべき若者の都会への憧れなどをあげてきました。でも、継ぎたくても継げない、という可能性には思いが至っていませんでした。

この直前に、親の跡を継いで牧場をやりたかったのに、牧場が赤字続きで、とても給料を出せるような状況じゃなかったので、「無休で働くわけにもいかんし……しょうことなしに、後を継ぐのを諦めた」青年の話が出てきます。この作品は「日本農業新聞」に連載されたもので、あさのさんは相当取材もしたことでしょうから、このようなケースは少なからず本当にあるのでしょうね。


農業で食べていけんようなら、この国は終わりです。

p.141

本当に!


穀は穀物を、菽は豆を意味する

p.245

真緑の勤める喜多川農林高校の「文化祭と収穫祭を結びあわせたような」行事が穀菽祭(こくしゅくさい)と名づけられていて、その由来です。菽という漢字は、初めて目にしました。


読了して、あさの作品への苦手意識が、だいぶ薄らいでいることに気付きました。少なくとも続編は読みますし、他の作品についても、機械があれば読んでも良いかな、と思えるようになりました。


見出し画像は、穀菽祭で生徒たちが売った花の1つであるポインセチアです。


↑文庫版



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