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次々に読みたくなる~『見仏記2 仏友篇』(いとうせいこう、みうらじゅん)~

「見仏記」の2巻目です。何とも言えない魅力を感じ、次々に読みたくなります。最近の私の一番の楽しみは、移動中や寝る前などにこのシリーズを読むことです。

↑文庫版


この「何だか知らないけど良くて、次々に読み進めたくなる」という感覚は、武田百合子の『富士日記』以来かもしれません。武田百合子もいとうせいこうも、みうらじゅんも、この2つのシリーズを同列に並べられたら、戸惑うこと請け合いですが(^-^;


そして今巻も、二人は絶好調です。四国のお遍路道を指して、以下のように表します。

「四国は昔から仏教界のディズニーランドと化しているのだ。(中略)弘法大師空海は、本当にとんでもないプランナーだ」


鎌倉の大仏の胎内めぐりをし、子どもの声に辟易としたみうらじゅんは、こう呟きます。

「自分の腹の中がこんなにうるさかったら、俺やだよ。俺は阿弥陀にはなれないな」

いとうせいこう同様、「阿弥陀になろうとしているのもどうかと思うが、子供の声が我慢出来ないことでそれを断念しているのはもっとおかし」く、これには声をあげて笑ってしまいました。


一方で、ふとした時に見せる鋭い視点は相変わらず。仏像が重要文化財に指定されると、収蔵庫に収めねばならず、財政的にそれを作れないと、美術館等に持っていかれてしまう、という問題については、みうらじゅんが以下のように述べています。

「地方の収蔵庫問題は、何よりも脇侍もなく寂しくしておられる仏像の気持ちである。これじゃ独房じゃないか! 真っ暗な部屋で阿弥陀はまだ修行を続けなければならないのか!」

加えて国宝に指定されても、何らかの理由で重文に格下げされることもあるそうで、何だかなという感じです。


だからこそ二人は、収蔵庫の仏像に即席の漫才を奉納するのです。仏像にしてみれば、収蔵庫に「監禁」されるより、人々に直接拝まれ、時に芸能を奉納される方が嬉しいだろうと思う私は、すでにいとうせいこうたちの感覚と同化しているのかもしれません。


一方で、収蔵庫入りとは真逆で、修復されない仏像にも二人の目は注がれます。佐渡のあるお寺では、お堂の扉を開けて、仏像たちに日光浴をさせてあげました。基本、仏像に手を合わせない二人が、この巻で唯一手を合わせたのが、その仏像たちです。

仏像の周囲の僧たちの像を評した、「各僧の前には、それぞれ沓が置かれているのだが、とてもそれをはいてまっすぐに立てそうな者はいない」(この表現にも、実は声をあげて笑ってしまいました)という言葉に代表されるように、このお堂の仏像はすべて悲惨なことになっています。それを見たいとうせいこうは、悟ります。

「仏が手を合わせている理由がわかる気がした。きっとこうして、滅びてしまう人間を見、届かない思いの中でせめてと合掌しているのだ。そして、心のうちで”頑張って下さい”とつぶやいている」


新宿のお寺の仏像を見た後の、いとうせいこうの感想も秀逸。

「誰も阿弥陀など見ない時代(中略)だが、阿弥陀はそれでも彼らを見ているのだと思った。(中略)仏像は変わらず人間を見ており、しかも自分を見よとは決して主張せずにいる。永遠の片思いのようにして、仏像たちは人間を見つめている」


ちなみに今巻で二人の千社札が登場するのですが、私、どこかで見た記憶があるんですよね。どこのお寺だったのか、そして今巻に出てくる千社札そのものだったのか、はたまたいとうせいこうかみうらじゅんの、単独のものだったのか、すべての記憶は曖昧です(^-^;


次巻も、ますます楽しみです。見出し画像は、浜松の龍雲寺の弥勒菩薩半跏思惟像です。


↑kindle版

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