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題名の意味~『月魚』(三浦しをん)~

*この記事は、2019年7月のブログの記事を再構成したものです。


三浦しをんは男性が主人公の時と女性が主人公の時で、まったく文体が違います。女性が主人公の時は、いかにも女性が書いた文章だし、男性が主人公の時は、男性作家が書いたのかと思うくらい、乾いた文体になります。力がある作家だということなのでしょう。


↑kindle版


『月魚』は、中編1本と短編2本からなる連作です。瀬名垣とその友人真志喜は、子ども時代に瀬名垣が真志喜の父親に対して犯した「罪」で結びついており、中編の「水底の魚」ではその罪との対峙が描かれます。予想もしない形で罪と対峙することになった二人ですが、最後まで展開が読めず、飽きずに読み進めることができました。

真志喜の父親が最後に見せた本心には、気持ちは分かるけど、あんた、子どもじゃないんだから、と言いたくなりました。でも自分が理解できない相手は、実は予想もしないような本心を抱えているということなのかもしれない。題名の意味が最後の最後で判明した時には、なんだか不思議な解放感を感じました。


短編の「水に沈んだ私の村」では、二人とその友人たちとの「青春」が描かれます。二人が、ただただ息詰まる思いで「水底の魚」までの時を過ごしたわけではないことが分かり、ほっとした思いになりました。『月魚』はこの作品の主人公の先生が書いたという設定なのかも、などと思うと楽しいです。「名前のないもの」の舞台は、「水底の魚」以前とも以後ともとれますが、これまたたわいのない時間を上手に切り取っており、静かに光る作品だと思いました。


↑文庫版



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