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かつおぶしの旅②【掌編】

かつおぶしをくわえた猫は、騒々しい町並みの影を縫うように駆けていった。
目指すは海である。

「・・・ありがとうな、猫さん」
かつおぶしは一言そういったきり、家を飛び出してからしゃべらなくなった。

しかし、猫はそんなかつおぶしに気をつかえるほど、心の余裕はなくなっていた。
なぜなら、かつおぶしをかじりながら走るということが想像以上にきついことだということを、猫は数分の間でひしひしと感じていたからだ。

猫はかつおぶしの香りに食欲がそそられ、ふとした瞬間に理性のタガが外れてしまいそうな心持ちがした。

(海に辿り着く前に、私がかつおぶしさんのことを食べてしまうかもわからない・・・)
そんな不安が猫の胸にリアルな可能性としてのしかかった。

「おい!猫!待ちやがれ!」

猫は自分を呼ぶ声がした方に振り返ると、後ろから犬が走ってくるのが見えた。

「それはご主人さまのかつおぶしだ!返しやがれってんだ!」

(おや、マジメ野郎の犬さんじゃないか。こんなところで見つかってしまうとは、運がないね)

猫は犬を振り払うために塀の上に駆け上がった。

「こら!降りてこい!」
犬が下から吠え立てながら、下でぴょんぴょんと飛び跳ねている。

「申し訳ないがね、犬さん。かつおぶしさんをそちらによこすことはできないよ。私たちはね、海へ行くんだ。それは誰でもない、このかつおぶしさんの願いなんだ。別に、私が食べたくて外に連れ出したわけじゃないんだ。犬さんよ、あんたも男だろ?ここはかつおぶしさんの思いを理解してくれよ。ほら、こんなに身を削って細くなってるじゃないか。かつおぶしさんだって、最後は海に帰りたいのさ」

「そんなことを言い始めたらよ、八百屋も魚やもペットショップもつぶれちまうよ。どうせ、オレたちは《この街》まで来てしまったんだ。最後まで自分の責務を全うするってのが筋ってもんだぜ」
犬は負けずに叫び返した。
「かつおぶしさんよ、あんたはそれでいいのかい?」

かつおぶしは、ただじっと黙っている。

「・・・・」
猫はかつおぶしの返事を待っていたが、何も返事する意志がないことを感じとった。
「あいにくだがね、犬さん。私たちはまた海を目指すことにするよ。私の勘だと、海まではここから走って2~3日はかかりそうだね。その間は、この街を留守にすることにするよ。くれぐれも、ご主人さんたちにはよろしく頼むよ」

猫はそういうと、踵を返して塀の上を走っていった。

遠くから犬の声がした。
「・・・気いつけてな!」

(マジメ野郎の犬さん、最初から行かせるつもりだったようだな)
猫はふいに笑ってしまった。すると、口からよだれが溢れでてきた。
口中にかつおぶしの香りが広がり、脳を刺激した。
猫は急激に空腹を感じ、頭がふらついた。
(いけない、気が緩んでしまった!)

「・・・」
かつおぶしは、猫が本能と理性の狭間で揺れ動いている間中ずっと黙っていた
猫にはその沈黙がひどくこたえた。

「かつおぶしさん、私達なにか話しませんか?」
猫はかつおぶしにすがるように声をかけた。
「・・・かつおぶしさん?」

それでもかつおぶしは、ただ黙っていた。
猫は気がおかしくなりそうだった。
だんだんと、猫は自分の中にある狂気が踊り始めているのをひしひしと感じはじめていた。
(だめだ!だめだ!)

「気いつけてな!」
そう叫んできた犬の声を猫は一生懸命に思い出そうとした。
(私は犬の前で、かつおぶしさんを海に届けると豪語した。それなのに、私がかつおぶしさんを食べてしまっては面目が立たないではないか!)

「かつおぶしさん、なんでもいいので答えてください。正直にいうとね、私は今、あなたを食べてしまいたい気分でいっぱいになっているんです。気を紛らわせないと、海に辿り着けそうにありません!」
猫は率直に自分の状況をかつおぶしに伝えた。一言一言を発するたびに、口にかつおぶしの味が広がり、体中に鳥肌がたった。

「・・・じゃあ、食べちゃいなよ」
かつぶしが小さくつぶやいた。
「猫さん、わたしを食べておしまい」

猫は小さな広場の角においてあった土管の中に飛び込んで、かつおぶしを目の前においた。
「かつおぶしさん、突然何を言ってるんですか?あんたは海にいきたいんでしょう?」

「・・・・きみの好きなようにしてくれ」
かつおぶしはその後は、もう一言もしゃべらなくなった。

「・・・うわあ〜〜〜!!!」
猫は大きく叫び声をあげて、またかつおぶしをくわえて海に向かって走り出した。
刻々と猫の理性が失われつつあった。しかし、この意識が続く限り走りきってやろうと猫は思っていた。

もうすぐ夕日が沈もうとしていた。
猫とかつおぶしの旅の行く末は、いまのところ誰も知らない。

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