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固いニンジン【短編】

【あらすじ】
 僕が中学1年生の時、4つ離れた兄がカレーを作ってくれた。だけど、そのカレーに入っていたニンジンは固かった。その時の体験から、僕はニンジンはしっかりと柔らかくなるまで煮込むべきだという「信念」を持つようになったという日常的なお話。あと、ちょっとした愛のお話でもある。


カレーを「おいしく」作るために、大事なことはなんだろう。
隠し味に、こっそりハチミツやヨーグルトを入れること?
または、市販のものじゃなくて専門店のルーを使うこと?
はたまたは、最後にトンカツをのせること?

どれもカレーをおいしくする点において役立つと思う。
そもそも「おいしい」という基準自体が曖昧なのだから、その方法やゴールは人それぞれ違うだろうし、違ってしかるべきだろう。
ただ問題となるのは、カレーをおいしくするための「自分なりの信念」があるかどうかということだ。

せんえつながら、僕には明確な「自分なりの信念」がある。
とはいっても、そう大したものではなく、とってもシンプルなものだ。
それはカレーを作る際に、「ニンジンを固いままにしない」ということだ。
つまり、ニンジンにしっかりと熱が通るまで煮込むということ。言ってしまえば、当たり前のことだと思う。
しかし僕はそんな当たり前なことを、徹底的に、猛烈に、狂気的に、求めているのである。

誤解してはいけないのは、僕は何もニンジンに「最高の柔らかさ」を求めているのではない。
だから、少なくともニンジンが「固くなくなった」のなら、その後にもっと柔くなろうが、ちょっと柔らかくなりすぎてしまおうが、僕にとってはどうでもいいことだ。
ニンジンさえ固くなければ、最悪そのカレー自体が不味くても、僕の信念上なんの問題もない。むしろ、ニンジンが固くないという事実ただそれだけで、スタンディングオベーションを浴びてしかるべきだとさえ思っている。

ちょっと説明がくどくなってしまっているかもしれないが、それくらいに僕は「固いニンジン」を断固拒否しているのである。

それでは、「固いニンジン」のどこが問題なのだろうか?

僕の問題意識は、きわめてシンプルなものだ。
それは「固いニンジン」が象徴しているのが「愛情不足」であるということだ。

調理に「愛」がある限り、ニンジンが「焦げてしまった」り、「煮込みすぎる」ことはあっても、ニンジンが「固いまま」で食卓に出てくることは、まず無いといえる。

怠惰な気持ち、味見という行為そのものの放棄、食べる人への想像力の欠如、作るということだけが目的化した雑務的作業、、、などの複合的な結合によって生み出されるのが「固いニンジン」なのだ。

愛の不足が「固いニンジン」となり、「固いニンジン」が食卓を愛なきものに塗り替えてしまう。
だからこそ、僕はカレーを作る際は、「固いニンジン」が残らないように、全身全霊で煮込むことにしているのだ。
それが我が20数年かけて培われてきた信念という名の「魂の叫び」である。
僕は今日も明日も、狭い台所で叫び続けるだろう。

『固いニンジン』だけは、絶対に許してはならんのだ!」とね。

*

僕がそれほどまでに、「固いニンジン」に拒否するようになったのには、当然のことながら訳がある。
何かを徹底的に、猛烈に、狂気的に拒絶するのには、それ相応の理由なり、原体験があってしかるべきだ。

僕にとってのそれは、僕が中学1年生の時に兄がつくってくれた「水のように薄いカレー」を食べたことが大きなキッカケとなっている。
その時のニンジンの食感が、その味が、僕の中に「固いニンジン」という確かな概念を形成し、僕の価値判断や行動に影響を与えるような志向性を持って、今の今まで僕の中で生き続けているのだ。

僕の家族は、父と母と4つ離れた兄と僕で構成されている。
うちの両親が共働きということもあり、母が忙しくて料理する時間が無い時は兄が代わりにご飯を準備してくれた。
特に、僕が中学1年生の時は、兄の料理を食べる機会がよくあったように記憶している。
当時、兄は高校1年生でラグビー部に所属しており、いつも体のどこかしらにする傷やら何やらケガをしていて、見るからに武骨で物騒であった。
また、兄は寡黙な人であったので、きっとそんなに大したことを考えていないのだろうけど、何やら深淵な雰囲気を醸し出していた。

そんな兄の食に対する考え方は、とりあえず沢山食べられて、「タンパク質」をちゃんと摂取できればそれでいいというものだった。
無駄を省いた合理的な考え方と言えばいいのか、無頓着の悟りの極地へとたどり着いたと言えばいいのか、それともただのズボラだといえばいいのか。
・・・判断は各自に任せることにする。

また、うちの兄と料理は、そもそも出会ってはならないような組み合わせのように見えたものだった。
ラグビーの練習でいつも傷だらけになっていて、よく土と汗の臭いのする武骨な兄が包丁を持つと、料理ではない他の用途で使うんじゃないかと身震いしてしまう。
そう、兄が包丁を握りしめるその姿は、最低限度の装備をして、短剣をかざしているローマ兵のようであった。
・・・というのは、いささか誇張が過ぎたかもしれない。
まあ、要するにうちの兄にはどうも料理というものがよく似合っていなかったということだ。

そして、実際に兄は料理がかなり苦手であった。
兄がつくるご飯は、なぜか必ず不味かったのだ。
いや、作ってくれるだけありがたいことは重々承知している。
しかし、やはりいつもどこか不味かった。調味料不足なのか、なんなのか。漢字の線が必ず一本足りてないような、そんな感じだった。
惜しいのだが、何かが足りなくて、結果はいつも芳しくなかった。
ある期間、毎日のように出てきた単調な目玉焼きは、今では軽くトラウマになっている。
とりあえず、僕は兄の料理を「おいしい」と感じたことが、これまで一度もなかったように思う。
唯一褒められるとしたら、ご飯がちゃんと炊けていたことくらいだろうか。

しかし、当時の僕はそんなことを一言も口にできなかった。それはそうだ。
下手なことを言うと、兄の逆鱗にふれてしまいかねないからだ。
食事中に兄と目が合うと、「文句があるなら、食うな」という暗黙のメッセージが視神経を通って僕の脳内にこだまする。
僕はそのメッセージをしっかりと受け止め、じっと息をひそめながら、ただ黙って食べるしかなかった。

しかし、そんな僕でもついに文句が出てしまったことがあった。
それが例の「水のように薄いカレー」が食卓に現れた時だった。
水の量がルーに対して多すぎたのか、またはルーが水の量に対して少なすぎたのだろう。ご飯にかけられたカレーのルーは、ご飯に覆いかぶさるのではなく、ご飯の中に「吸収」されていた。なぜなら、それはほぼ水だったからである。
具材を見てみると、そこに肉はなく、ジャガイモ、ニンジン、玉ねぎたちが呆然と皿の上に「漂っていた」。彼らはご飯にもルーにも馴染めず、どこか心細そうに見えた。どこにいったらいいのか、自分の立ち位置がどこなのか、イマイチつかめ切れていない、そんな感じだった。
その時のニンジンの姿を、昨日のことのように今でもよく覚えている。
つい先ほどまで煮込んでいたとは信じられないような、フレッシュで彩度の高いオレンジ色に身をつつみ、エベレストか何かと思えるような異様な形に切り出されているその姿を、今でもよく覚えている。

「これちゃんと煮込んだの?」とつい僕の口から不信の声が漏れてしまった。僕は「はっ」として兄の顔を見た。

兄は「いいから食え。」と無表情で応えた。
その圧力は、僕の声を喉の奥に押し込めてしまった。僕はただ視線を落とし、カレーを見つめるしかなった。
兄のこの圧力を料理に加えることができれば、3分もあればニンジンくらいならすぐ柔らかくなるだろうに、と僕は思った。
だがそんなことはできっこないので、残念極まらなかった。心から。

僕は恐る恐る、ニンジンを口に入れ、そいつを噛みしめた。
コリコリとした食感と共に、とてもニンジン的で野菜的な風味が口全体に広がっていった。
その時のニンジンの食感が、その味が、「固いニンジン」という概念を僕の脳裏に深く刻み込んだのだ。
そして、台所に嫌々立ち、適当に野菜を切り刻み、分量も確認せずルーを投入し、ぐつぐつしてきた適当なタイミングで火を消した兄の一連の行為の集合体が僕の頭の中に映し出され、僕はそのすべてを一瞬でつかみ取った。
その時、「固いニンジン」と「兄の無表情」はコインの表と裏のように密接に繋がり合って、僕の心に投げ込まれたのだ。心に広がった波紋は、いつしか一つの確かな形となって僕の意識に立ち現れ、言葉となった。

『固いニンジン』とは『愛情不足』なのだ!」とね。

*

「歴史」という荒波に耐え、現代まで語り継がれている賢人の知恵は、現代に生きる僕らにも多くの悟りをもたらしてくれる。

「はじめチョロチョロ、中パッパ、赤子泣いてもフタとるな」

これは窯でご飯を炊いてきていた時代の「おいしくご飯を炊くための魔法の呪文」である。この呪文を唱えるだけでなく、実行に移すことでご飯はとってもおいしく炊き上がったという。

今では、炊飯器でご飯を作る家が一般化されているため、ご飯を炊くに際して、もはや必要のない言葉のように思えるかもしれない。
しかし、あの魔法の言葉は、現代においても重要な悟りを我々に与えてくれていると僕は思っている。
特に「赤子泣いてもフタとるな」の部分に、僕はひどく感銘を受けている。

そうなのだ。どんなに泣きつかれ、急かされようが、煮込み切るまでは蓋を開けてはならないのだ。
完成まじかのその数分を待てるかどうか、そこが勝負の分かれ目となるのである。
その数分の我慢が「おいしい」ごはんを生み出す。

言うならば、愛とは「時間がかかるもの」なのだと思う。
だからこそ、愛の意味がわかるのも、その愛が身に染み込むのも、時間がかかってしまうものなのだろう。
愛なんて、急げば与えられるものでもないし、たとえ与えられたとしても、相手がそれを愛だとわかってくれるとも限らない。
ただ、できることといえば、時間をかけることなのだ。

言い換えると、僕らにできることはちゃんと煮込んで「ニンジンを固いまま出さない」ということだけなのだ。

極論を言ってしまえば、どんなに真心を込めて作ったところで、ニンジンが固ければそのカレーに関してはその人は愛が足りていなかったのだ。
その逆に、どんなに嫌々カレーを作ったとしても、ニンジンさえ柔らかければその人はカレーに愛を注いだのだといえる。

ニンジンの固さは、人の心持ちにとらわれることなく、その人の愛を規定する。
それは思いが言葉を通して語られるのと似ているかもしれない。口にした言葉がその思いとなり、その思いが言葉となる。それらは決して完璧には重なり合っていないのかもしれないが、思いは言葉となって表現されるし、言葉によって形づくられてしまっているといえる。

それは、カレーのニンジンだって同様なのだ。
その思いがニンジンの固さで表現され、その固さによってその思いが形成される。
もうどちらが先だとかは、関係なくなってしまうのだ。
ニンジンはのその固さが愛であり、愛がその固さになるのである。

・・・実をいうと、何のことだか段々自分でもわけがわからなくなってきているが、
まあ、とりあえず、そういうことなのだ。

*

なんてことを、カレーを食べるたびに、ニンジンを口にする度に考えている。
僕は大学生になると同時に実家を出て、キャンパスの近くに家を借りて自炊するようになった。
自炊するようになってまず思ったのは「日々の食事の準備が何とも面倒くさい」ということだった。
最近だと、検索すれば簡単においしく作れるレシピが雨後の筍のようにポンポンと出てくる。それ自体は本当にありがたいし、この時代に生まれてよかったと心から思っている。そのお陰で、料理をすること自体の難易度はそんなに高くないと僕は感じている。少なくとも「僕にとって」ではあるが。
しかし一回一回の料理は簡単でも、それを毎日するとなると料理は何とも難儀なものとなってしまう。なんと不思議なことだろう。

そんな僕は今夜、カレーを作った。
というか最近はカレーばかりを作っている。カレーは多めに作ればそれで何日かはしのげるし、カレーは何日か続いても飽きない程度においしいからだ。

もちろん、僕は一人で食べる時でも、ニンジンがしっかりと柔らかくなるまで必ず煮込む。
ちゃんと自分の信念にしたがって。
だから今夜のカレーのニンジンも、やはり柔らかい。パチパチ(拍手)。

こうやってニンジンを食べる度に、兄の作った夕食を食べていた頃を思い出す。
両親が不在の中、嫌々ながらもでも、弟のために苦手な料理をしてくれていた兄の背中を思い出す。
その不器用な包丁が奏でるまな板の音、
定期的に聞こえる舌打ちの音、
ぐつぐつと溢れ出てくる鍋の音、
その全てが懐かしく僕の中で甦ってくる。

なんだかんだ言っても、やはり感謝しているのだ。
確かに、あの時に兄がつくったカレーのニンジンは固かった。

だけどあの日の「固いニンジン」が、結果的に「今日のニンジン」を柔らかくしてくれているのは確かだ。
少なくとも、今の僕はそう感じている。

それはつまり、まあ、ようするに、そういうことなんだと思う。

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