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≪時計の世界≫でチクタク・チクタ【短編】


【あらすじ】
≪時計の世界≫の時計職人である僕(ペペ)は、事故をきっかけに長期的に仕事ができない体になってしまう。僕は三人の職人仲間たちとの会話を通して、「働くこと」について改めて考えるようになり・・・

【登場人物】
僕(ペペ):≪時計塔≫の一級職人。
バッフォン:職人仲間。本業の傍らカフェを経営している。
ルーペ:職人仲間で副業でギターリストをしている。
クリット:優秀で時計職人でペペの憧れの存在。ちょっと宗教的な人。


ここは≪時計の世界≫。人間の世界の時間と時計の狭間にある世界だ。
≪時計の世界≫は、時間の秩序を守り維持するために生まれた世界だと言われている。人口は1000万人の小さな世界だ。
この世界の中心には、≪時計の塔≫がある。後で詳しく説明するが、この塔のおかげで時間の秩序が保たれている。全長300mの高さがあり、≪時計の世界≫の中心に位置している。
≪時計の世界≫の歴史は約6000年前から記録されるようになったが、≪時計塔≫は歴史がつづられるようになる以前からすでにそこにあったとされている。驚くべきことである。
はるか昔から現在まで、腕利きの時計職人たちによって修理や部品交換が綿々と行われることで受け継がれてきた塔である。

僕は、この≪時計塔≫のメンテナンスを担当する一級時計職人だ。
≪時計塔≫は、その高さもさることながら、その内部の構造は大小さまざまな部品で構成されている。年季がかなりあることもあり、一か所を直したかと思ったら、また他の所に問題がでて、その問題がまた他の不具合を生み出す。したがって、時計塔の職人たちの仕事は尽きることがなく、職人がいくらいても足りない状態である。しかし、後で詳しく説明するが時計塔の機構的「特殊性」のため、メンテナンスを担当する職人たちには繊細で高度な技術と体力が要求され、この塔に配属される時計職人は「一級」の資格を持っていることが基本的な条件として求められている。そして一級の時計職人となるには、時計職人養成学校の筆記試験と実技試験の両方で9割以上の点数を取る必要があり、その難易度はとても高い。どれくらい難しいかというと、二階から目薬を10回連続で成功させるくらい難しい。
そのため、≪時計の世界≫には時計職人が1万人いるとされるが、その内で時計塔の整備を担当できる技量を持っている職人はわずか500名しかおらず、そのため常に時計塔の職人は慢性的な人員不足に苦しんでいる。毎年数名新たな一級時計職人が生まれたかと思えば、毎年数名作業中の事故で死人が出る。≪時計塔≫での作業環境は、一言で言うなれば「過酷」なのだ。

しかし、≪時計塔≫の職人となることは、時計職人にとって最高の名誉だ。
なぜなら、時計塔が≪時計の世界≫を支え、また≪人間の世界≫の時間をつかさどっているからである。つまり、時計塔を守るものはこの≪世界≫を守っているのである。

僕は生まれてこの方時計職人として育てられてきた。物心ついた時から、時計の修理道具に触って遊んでいたし、時計を直すという行為そのものが僕にとっては息をするくらい自然なものであった。そして3年前、僕が25歳の時に一級時計職人に認定された。これは歴代で3番目の早さでの昇格であったらしい。



時計塔の近くには、≪時間≫や≪時計塔≫の研究をしている≪時計台研究所≫がある。
そこの学者たちの長年の研究によると、≪時間≫は伸びたり縮んだり、薄くなったり厚くなったりするそうだ。この時間の伸縮作用が、多大なエネルギーを生み出し≪時計塔≫を動かしているのだという。

人の成長に必要な時間の量は、少々の個人差はあるだろうが、大体は同じくらいである。長い目で見れば、一日、一週間の差はあってないようなものだ。一方で、常人が身に着けようとすると1年かかることを1カ月でマスターしてしまう人がたまにいる。また、技術的に熟練した者たちのなかでも飛びぬけて優れた作品を残すものもいる。≪人間の世界≫ではこのような人を「天才」と呼んでいるようだ。

一見すると、それぞれが必要とする時間の量に大きな違いがあるようにも見えるが、≪時計台研究所≫の学者によるとそこに時間の量的な違いはないとされる。その違いは、「時間の圧縮度」によって生まれるものであり、人によって時間を圧縮させる力に違いがあるのだという。時間延ばしたり、縮めたりする力を、≪時計の世界≫では「才能」と呼んでいる。
人の「才能」は、執着心や衝動を動力源にして、時間を圧縮し、歪める働きをする。
つまり、いわゆる天才たちは人よりも少ない時間の量でそれらを自分のものにしたわけではない。彼らはその時間を「圧縮」して自身の中に吸収し、体験しているのだ。つまり1年間分の時間を1カ月に、1カ月分の時間を1週間に収まるように自身の中で高速再生しているようなものだ。そして、そのような「時間の圧縮」は当然のことながら時空間にいびつな歪みや凸凹を発生させる。時間の凹みに時間が押し寄せることで、また他の場所に新たな凹みが生まる。凹が凸になり、凸が凹になりながら時間は絶えず伸びては縮みながら流れていく。
時間が生み出す歪みは新たな歪みを生み出し、どこかにしわ寄せがくる。スポーツの世界でも、ある年代に次々と新記録が生まれたり、競技者のレベルが急速に引き上げられる現象があったりするが、これらも巨大な才能が生み出した時間のうねりによってもたらされるものといえる。もちろん、このような才能の力が引き起こす時間の伸縮、そして歪みとしわ寄せの波状は、スポーツ以外の様々な領域でも見られる。
常に誰かがどこかでちょっとした才能を発揮していたり、時に100年に一度の大きな才能が生まれたりしながら、時間は絶えず伸縮作用を繰り返しながら、物理空間にも影響を与えている。時空間の歪みがもたらす「影響」は決して良いことばかりではない。時に人々の集団的精神状態にノイズを発生させ心理的興奮状態にすることで紛争を引き起こすこともあるし、異常気象や大地震、イナゴの大群などの災害を突如として発生させることもある。
大げさに言うと、人間の才能が作り出す時空間の歪みをそのまま放っておくことは、下手をすると地球自体を握りつぶすような空間的ねじれを生み出しかねないほど危険なことなのである。かといって、誰が、いつ、どこで、才能をどのくらいの強度と期間発揮するのは特定不可能だし、仮に特定出来たとしても彼らの才能の開花を止める方法がない。
まあ、人類が滅亡すれば話が早いのだけれど、どうやら≪かみさま≫がそれを望んでいないらしい。だから時間の歪みが生み出す軋轢は、「人間」ではなく「時間のダイナミズム」を最小限に抑えることで制御する必要がある。そのため、≪人間の世界≫と時間を共有しているこの≪時計の世界≫は「時空間の秩序」を保つために≪かみさま≫によって生み出されたというのが、≪時計の世界≫の創始神話だ。神話の是非はともかく、実際に≪時計の世界≫が行っているのは、時間の伸縮運動が作り出す莫大なエネルギーを抑制し、時空間の歪みを最小限にする役割を担っている。そして、その中心的機能を果たすのが、僕の職場である≪時計塔≫という訳だ。
≪時計塔≫は、人の才能が生み出す「時間の伸縮運動」の過剰なエネルギーを電気エネルギーへと変換することで、時空間の歪みを最小限にしつつ、≪時計の世界≫での生活を支えるエネルギー源を生み出している。
つまり、≪時計の世界≫によって≪人間の世界≫での時間の歪みの被害は最小限にされている一方で、その時間の歪みが生み出すエネルギーによって≪時計の世界≫での生活は成り立っているといえる。いわゆる、持ちつ持たれつの関係なのである。

・・・というのが、時計台の学者たちによって唱えられている≪時間の世界≫の概要だ。まあ、実際どうかはわからない。

とはいったものの、≪時間≫についてもよくわかっていないのだから、≪時計塔≫についても実際のところはよくわかっていないのが実情だ。歴史以前の世界から存在したという≪時計塔≫は神話と共に語られ、「神秘的で聖なるもの」として信仰の対象にさえなっている。
時計職人や、時計台の学者たちを悩ませ、≪時計塔≫を「神秘的」だと表現させるのは、≪時計塔≫が現代の技術でも再現できない程の高度な技術でつくられているためだ。今の最先端の技術や科学的見地からでもその全容は理解できていない。

その圧倒的な技術力は、≪時計塔≫が「時間の歪み」に合わせて内部構造を自在に変化させるという、あり得ない仕組みで成り立っていることからもうかがえる。
一様ではない時間の動きに対して最適なアプローチをするために、≪時計塔≫は内部を組み替えて対応している、というのが≪時計台研究所≫の共通理解である。ただでさえ複雑な内部構造が不定期に組み替えられていくことで、≪時計塔≫での作業の危険度は極度に高まる。
なぜなら職人が管理点検している時に内部構造の変化が起ると、最悪の場合職人は歯車に巻き込まれたり、足場から落下しやすくなるためである。≪時計塔≫での死亡原因は、まさにこの≪時計塔≫の特殊な機構による事故死が大半である。

時計塔で働く職人たちは口をそろえて、「この塔は生きている」と言う。もちろん、僕もその一人だ。

「確かに塔自体は部品の組み合わせで出来ている『機械』なのだが、あれは俺らのように「意志」を持って生きている。時々あいつは意志を持っていて、『時間』と『俺たち』に対しているように感じるんだ。」

時に≪時計塔≫は無慈悲にも職人たちの命を奪っていく。
そして、命を失う職人は決まって「最高」の一級時計職人であった。

目を覚ますと、朝の9時だった。
いつもなら、すでに作業場で修理作業をしている時間だ。だけど僕は、病院の個室のベッドでゆったりと寝そべっていた。
時計職人の生命線といってもいい僕の利き腕(右腕)にはギブスがはめられており、頭には包帯がまかれている。僕は1週間前に、≪時計塔≫の内部変化に巻き込まれ、足場から落下し重傷を負ってしまったのだ。骨折自体は3~4カ月もあれば直るそうだが、右腕のリハビリには1年以上かかるかもしれないと医師からは言われた。またケガの後遺症が残る場合、時計修理で必要な繊細で微細な道具のコントロールの障害になる可能性があるという。
もし医師の言うように僕の右腕が以前のように動かなくなってしまった場合、僕は大変困ったことになる。
なぜなら「一級」時計職人としての資格が剥奪され、二級へと降格されてしまうからだ。

「はあ、どうしたものか。」
あてもないため息が、僕を通り抜けていく。

僕はいわば時計職人界では「エリート街道」を歩いてきたといえる。
おじいちゃんからおとうさん、そして僕の3代が時計職人で、小さいころから、おもちゃが時計の修理道具だったし、時計修理が僕の遊びだった。
僕の毎日が時計修理によって成り立っていて、暇な時間さえあれば、時計修理の技術的精確性や速度を上げる練習をしてきた。
そんな生活をしてきたのだから、当然のことながら、僕は時計職人養成学校を主席で卒業したし、一級時計職人にも比較的若い内になれた。
僕はこの職業を天職だと考えていたし、僕の人生から時計修理を取り上げたら何も残らないくらいだ。

(それなのに・・・)
右腕に目を移すと、ギブスが苛立たしいほどに白く輝いている。
いつもと変わらないその白さが、僕の目には残酷に映った。

「ペペ、また来ちゃったよ。気分はどう?」
ガラガラと扉があけられ、職員仲間のバッフォンが入ってきた。彼は二級時計職人だが、資産運用の才があって僕なんかよりも稼ぎや貯蓄がある。また彼は時計職人をする傍ら、カフェを経営しており、今は新たなにラーメン屋を展開しようとしているそうだ。
バッフォンはかなり稼いでいる割には質素な風貌をしていて、彼の身なりだけを見るとお金持ちであるようには見えない。また彼は快活で驕らない性格をしているので、みんなからも好かれている。彼を嫌いだと言う人も中にはいるが、それは彼の人格のためではなく、彼の経営能力とその富に対する嫉妬によるものであった。
僕はバッフォンと一緒にいることが好きだったし、どうやら彼も僕のことを気に入ってくれているみたいで、たまに二人で会っては酒を酌み交わして、何を話したか思い出せないような雑談をする仲である。

「バッフォン、来てくれてありがとう。気分はちょうど最悪になりかけていたけど、君のおかげでだいぶましになった気がする。」
「おお、それはよかった。ちょっと病院の近くに行く用事があったからついでに寄ってみたんだよ。
そういえば、この前ペペが読みたいっていっていた小説も買ってきたんだ。暇な時に読んでくれよ。」
バッフォンは、さわやかな笑顔と共に小説を渡してくれた。
「君は本当にとても気が利く友達だ。ありがとう。」

僕らは15分ほど雑談した後、バッフォンは彼の作業場に帰っていった。
また一人残された僕は、彼の置き土産の小説を数ページ読んですぐ閉じた。
固められている右腕が胸に重くのしかかって息苦しくなる。
そのせいか、ガス抜きをするかのように、定期的にため息が出てくる。

「はあ、寝よう」
僕は入院して以来、寝てばかりいる。



ガラガラ
扉が開く音に目が覚めた。

「おっと、ごめん。起こしちゃったかな?」
細身の男性が扉からひょっこり神経質そうな顔を出して、心配そうに目を開いていた。僕の職場の友人だった。
「いや、いいんだ。眠くて寝てたわけじゃないから。」
彼の名前は、ルーペ。去年一級時計職人となった同い年の友達だ。彼は時計職人の傍らギタリストとしてバンド活動をしている。その腕前は確かで、よくプロのバンドからも勧誘されているし、彼の演奏を心待ちにしているファンも少なからずいるくらいだ。
しかし、ルーペはギタリストであるよりかは「時計職人」であることにより人生の重点を置いているようであった。
彼の時計修理に対する情熱は大したもので、彼が27歳の時に一級時計職人に認定されている。
僕は彼よりも2年ほど早く一級になっているが、彼が時計修理を始めたのは僕よりも遅いし、ギタリストとしての活動もしながらだから、彼の時計職人としての才能は僕よりもあるんじゃないかなと常々思っている。

「いやあ、ペペがいなくて≪時計塔≫の作業に終わりが見えないよ。みんな君を恋しがっている。君ほど精確に素早く作業できる職人は中々いないからね。」
「そう言ってもらえると嬉しいよ。早く僕も復帰したいな。だけど・・・」
「だけど?」
「うん、だけど医師が言うには、もしかしたらこの右腕が前のように動かなくなってしまうかもしれないそうなんだ。問題なく動いたとしてもブランクがあるし、≪時計塔≫でまた作業できるのか不安だよ。それに・・・」
僕は胸にたまっていた不安をルーペに話した。ルーペは神経質でおどおどしているところがあるが、僕は彼を職人としても友人としても信頼していた。彼は何も言わずに僕の言葉となって溢れでてくる不安の塊をただ聞いていた。

「ルーペ、僕は病室で一日中寝ながらさ、時計修理ってなんだろうってよく考えてるんだ。生まれてこの方それしかやってこなかったし、技術力が上がれば上がるほどに周りからは褒められて、認められてきた。僕はなんの疑いもなくそれでいいと思っていたし、ただもっと精確に早くできるようになることだけを考えて生きてきた。だけどこうやって、一度そのサイクルから出て、もしかしたら以前のようには戻れないかもしれないっていう可能性が突き付けられてみるとさ、突然虚しくなってしまったんだよ。仮にそうなってしまったら、僕にとっての『時計修理』ってどのようなものになってしまうんだろう。」
ルーペは、終始黙って聞いていたが、僕が黙って天井を眺めていると、ゆっくりと話し始めた。

「確かに、君を見ていると尊敬の念が湧き出てくるほどに。時計修理に没頭していたよね。もしかしたら気分を害するかもしれないけど、そんな君の姿は時々狂気じみても見えたよ。そんな君から時計修理が取り上げるなんてなんて、『仮に』でも僕には想像できないよ。」
「そうだろうね。」
ルーペは僕の目をじっと見つめながら、何か言いたそうに口元に手を置いていた。彼のいつもの癖だ。
「ルーペ、何か言いたいことがあったらなんでも言ってくれよ。遠慮はいらないからさ。」

「・・・・まあ、これは前々から聞いてみたかったことでもあるんだけど、ペペにとって修理の精確性と速度を高める以外で、時計修理の楽しみや喜びってあるの?」
「そりゃあるさ、たとえば・・・」
僕はその先を語ろうとしたが、言葉につまった。よく考えてみたら、技術の体得やその研磨が僕にとっての時計修理であり職人としての目的であったからだ。その他に何があるというのだろう。
「あ、ごめん。僕にとって時計修理の楽しみは技術の向上であって、それ以外ないかもしれないな・・・。ところでなんでそんなことを聞くんだい?」

ルーペは、遠くを見つめるような目をしていた。彼は自身の感覚に目を向けようとすると決まって遠くを見るような目をしていた。一番近いはずの自分の感覚が、どこか遠い彼方にあるかのように。
「僕の個人的な感覚の話なんだけど、いいかな。僕は、時計の音が好きなんだ。チクタク・チクタクっていうのもあればさ、カチカチ・カチカチってのもあるし、スススーっていう滑らかなものある。僕は時計を修理して、美しい時計の音を再び奏でられることが楽しくてしかたないんだ。
中でも僕を感動させる音は、≪時計塔≫の針の音さ。僕はあの音が聞きたくて一級職人になったっていっても過言じゃない。僕時計の音の傍で生きていたいし、その音を守って生くことにどうしようもなく喜びを感じるんだ。」
ルーペは興奮を抑えるように静かに語った。ルーペとは養成学校時代からの長い付き合いであるが、彼が時計職人になりたい理由を明確に聞いたのはこれが初めてだった。
「ペペ、もし僕がさ、事故か何かで仮に一級職人としてやっていけなくなったとしても、例えば二級や三級に落ちちゃったとしても、僕はそれでも時計職人をやり続けると思うんだ。確かに、≪時計塔≫の音を内側から聞けないのはいくらか残念ではあるけど、時計がこの世界から無くならない限り、僕の好きな時計の音は僕から消えることは無いのだからね。」

夕方、日が低くなり窓から柔らかな日差しが差し込んでいる。
僕は天井についたシミの不規則な模様を目で追いかけながら、ルーペの言葉を思い返していた。
ルーペにとって時計の音が、時計職人であるための動機であるのなら、僕にとってのそれはいったいなんだろう。
僕にとっての時計修理はをする理由は、単純に僕がそれが得意で、みんなも褒めてくれるし、うまく修理すれば喜んでもらえるから。
たったそれだけだ。そのために、僕は確かな技術力を磨くことに必死になってきた。
三級である時は二級になるために、二級である時は一級になるために頑張った。そうすることが、僕の職人として貢献できる範囲や広がるからだ。だから僕はルーペのように、どの級でも時計修理に喜んで向き合える気がしない。一級から二級に落ちるのは、僕自身の不完全さの証明になるし、上に行けない状態が続く限り僕は常に絶望するのではないかと思う。

「僕から技術をとったら何も残らないんだよ、ルーペ」
僕は一人つぶやいた。

ルーペが帰った後、僕は2~3時間ほど寝るでも起きるでもなくベッドの中で目を閉じてじっとしていた。
すると、またガラガラと扉が開いて誰かが入ってきた。そこに立っていたのは、ヒゲずらでがっしりとした体格の男だった。まさに「武骨」という言葉が似合う風貌をしている彼は、職場の先輩であり、友人でもあるクリットだった。

「クリットさん!来てくれたんですね。色々と話したいことがあるんですよ。」
クリットはそっと微笑みながらベッドの傍にある椅子に腰かけた。彼は寡黙で口数は決して多くないが、自身の背中で多くを語る誠実な男だ。そんな彼の特性は彼の仕事ぶりにも表れており、彼の修理作業は精密で確かだ。クリットは間違いなく、一級職人の中でもトップレベルの職人だといえる。僕は彼の人格もさることながら、その技術力の高さに尊敬心を抱いており、何か彼から技術的なものを盗もうと事あるごとに彼の後をついて回っていた。クリットにしたら、何かとついて回って質問しまくる僕がうっとうしく感じることもあっただろうが、彼はいつも静かに笑いながら丁寧に答えてくれた。

「相変わらず、口の方は元気そうで安心したよ。
さっきルーペが、君がとても落ち込んでいると言ってたから心配してたんだけど。」
「何言ってるんですか、クリットさん。僕は今にも崩れだしそうなくらい不安でいっぱいですよ。もしケガの後遺症で以前のように修理道具を操ることができなくなってしまったら、僕は時計職人であることが苦痛でしかなくなってしまうような気がしているんです。」
クリットはヒゲをなでながら終始小さくゆっくり頷いて聞いていた。深い沈黙が彼を覆っていた。

「例えば、バッフォンは二級時計職人以上になることには興味がないようだし、ルーペも極論どの級にいても時計の音さえ聞ければ幸せだっていうんです。でも僕は、僕にとっての時計職人は、より精確に、より早く修理できるようになること以外に存在意義も目的もないんです。だから前よりも技術的に退化してしまうことに、僕はとてもじゃないですが耐えられそうにないんです。」

クリットの纏う沈黙が胸の奥にたまった思いを引き出しているのか、僕の口から言葉が次々と溢れて出てきた。
「クリットさん、僕は時計職人である意味がわからなくなってしまいましたよ。仮に運よく以前のように働けるようになってたとしても、僕のこの不安は消えないと思います。僕だって10年もしたら段々と老いていくし、技術力や瞬発力だって徐々に衰えていくと思うんです。それにもしかしたら、また事故にあうかもしれないじゃないですか。いうならば、僕のこの手から『技術力の研磨』という目的が果たせない日が、遅かれ早かれいつかは来るってことですよ。
僕にとって技術的進歩のない職人生活なんて『空っぽ』な状態でしかないんです。僕にはそれが耐えられそうにないんです。いつ来るかもわからないけど必ず来るその『空っぽ』の恐怖と虚しさに怯えながら、僕は職人として生きていかなくてはならないんです。
・・・これから・・・ずっと。」

僕はクリットに何かを求めていたのか、ただわかってほしいだけだったのか、それとも何か救いの道を求めていたのか、それは定かではない。ただ、僕は彼に訴えかけたかったのだ。そしてクリットに投げかけた訴えが彼の沈黙に変化を生むのを僕はじっと待った。
クリットは、鼻から細く長く息を吐き出し、ゆっくりと口を開いた。



「ペペ、不思議なことに僕も君くらいの年齢の時に・・・いや幾分君よりは歳をとっていたと思うけど、君と同じように≪時計塔≫で事故にあって入院して、君と同じようなことで悩んだことがある。」
クリットの口調は、いつものように穏やかだった。
「私はその時は、ただ良い職人になりたいという一心で働いていたんだ。
だけど、どこかで行き詰ってしまったんだね。「一級」の上に何かまた別のランクがあったら、そのランクに上がるまでその悩みを忘れることができたかもしれない。でも遅かれ早かれその悩みには必ず直面することになるんだ。自分の生きる意味をただ≪時計を直すこと≫にだけ見出そうとする限りね。」

今度は僕が黙ってクリットの話に耳を傾ける番であった。
クリットは、ゆっくりとだが、明瞭な声で話し続けた。
「ペペ、君は時間の意味を考えたことはあるかい?
例えば、昨日という時間が人々にとってどのような意味を与えているのかとか。
ははは、そうだね。昨日がもたらす意味なんて人それぞれ違うだろうね。
誰かにとっては恋人ができた日かもしれないし、誰かにとっては大切な人との別れの日だったかもしれない。または、誰かにとってとても嫌なことがあって怒り狂った日だったかもしれないし、どうしようもない絶望感を味わった日だったかもしれない。
そうなんだ。時間なんてものに、共通の意味なんてない。時間はただそこにあって、僕らはそれが暴れだして世界を壊さないように、≪時計塔≫を管理している。
でもさ、私は退院後に初めて職場に復帰した時、私を殺そうとした≪時計塔≫を下から眺めながらさ、『時間を通して僕らが宇宙の次元で繋がっている』のを実感したんだ。突然だった。その全体像が僕の頭の中を満たしたんだ。でも僕はとてもじゃないけどそのすべてを把握しきれていない。ただ、この世界が神秘的に繋がり合って共に生きていると感じたんだ。
そこには様々な喜怒哀楽に溢れているし、誰かの胸を躍らせるような幸福は、誰かにとっては暴力的な悲しみとなるかもしれない。だけど、それも時間によって繋げられ知らず知らずのうちにお互いを共有し合って一つの存在になっているんだ。そして、僕にとって時計職人として働くのは、その事実に自覚的に向き合うってことなんだ。」

僕はじっとクリットの毛むくじゃらの顔を眺めた。
「なんだか、宗教的だね。」

クリットは肩をすくめた。
「まあ、私にとってはそうだって話だけどね。
私が言いたいのは、働くこと、または技術自体に、生きる意味を見出すことはできないってことさ。時間の価値や重さが人それぞれ違うようにね。」
クリットは一息ついて窓の外を見つめた。日はもうほとんど沈みかけていた。
ふとクリットは、何かを思い出したようにまっすぐ僕を見つめ直した。
「ペペ、君の悩みは君自身でなんとしても解決しなくてはならないことなんだと思う。
一つ言えるのは、≪時計塔≫で働く者たちは『自分の時間を掴んでいなくてはならない』ということだ。そうでないと、私たちの時間は≪時計塔≫に吸い取られてしまうんだ。まるで≪時計塔≫の部品のように生きてしまうとね、≪時間に食べられちゃう≫ことになる。言い換えると、『自分が』無くなっちゃうというか、『時間が』自分になっちゃうんだよ。
君も知っての通り、≪時計塔≫で命を落とす職人たちは決まって≪時計塔≫に魂を捧げたように働く優秀な人たちばかりなんだ。これは単なる偶然じゃないと私は思う。
働くという行い自体に、究極的な意味なんてない。そこに全てを懸けようとするから、何かがおかしくなるんだ。働くと言う行為が、生活の一部となるときに、またはより大きな目的の一部となるときに、その意味が決定されるんだよ。
バッフォンにとって、時計職人でいることは資産運用や彼の個人的なビジネスのためのまとまった元本を生み出すためなのかもしれないし、
ルーペにとっては時計の針の音を聴いて楽しむためにもってこいだったのが、たまたま時計職人だったのかもしれない。
そして私にとっては、時計職人であることは宇宙を繋げるこの時間と関わることで人々を支え、共に生きていくための一つの手段なんだ。
ペペ、君には手先の器用さの集合である『技術』を超えるような、そんな出会いをしていく必要があるようだね。
さもないと、職場に復帰しても、また≪時計塔≫に食われてしまうよ。
今度こそ確実にね。そう、君が『空っぽ』になって絶望に落ちる前に、≪時計塔≫が君を連れていくんだ。」
クリットは、大きくため息をつくと窓の外を何をみるでもなく眺めだした。彼がこうやって遠くを見る時は、大体お腹がすいている時だ。
柄にもなく多くを語ることで、彼に多くのエネルギーを使わせてしまったようだった。
だけど、僕はクリットの言ったことが腑に落ちなかった。
「まあ、クリットが言わんとしていることはなんとなくわかるような気がするよ。でもさ、その『出会い』ってのはどこで、どうやってできるのさ」

「その出会いがあるのがいつ、どこで、どのように君に訪れるのかはわからない。僕は≪かみさま≫でも何でもないからね。
ただひとつ言えるのは、目の前の人やものごとを愛することだよ。月並みで臭いセリフだけどさ、愛することで出会いになるし、出会うことで愛し合えるんだ。」

なんだ、結局は愛かよ、と僕は思った。
そんな模範解答を僕は求めていたのではない。
「クリット、万事が『愛』に落ち着くようにこの世界は物語的に描かれているんだから、『愛しなさい』っていう結論はなんの当たり前すぎて意味もないよ。まったく。」
「そうかな。」
「そうだよ。じゃあ、愛するってどういうことなのさ」

僕はちょっと怒ったような口調でクリットに突っかかった。実際、僕は愛なんてものが、まだよくわからなかったのだ。
クリットはそんな僕の様子に気を悪くすることもなく、いつものように穏やかに笑っていた。
「君はいつも難しい質問ばかりするね。
まあ時計職人として一つ言えるのはさ、相手のために時間を共有することなんじゃないかな。今、僕らがしているようにね。」

僕は結局、10カ月で職場に復帰することが出来た。幸いにも、ケガの後遺症は残らず、復帰後3カ月が過ぎたころにはブランクもだいぶ解消され以前のように精確で早く修理ができるようになった。

また事故前と事故後で僕の生活習慣も少し変わった。
以前なら寝る間も惜しんで修理の練習をしていたところ、以後の僕は寝る間を惜しんで友人たちとよく遊ぶようになった。
バッフォンと一緒にラーメン探求の旅に出たり、ルーペのバンドのライブを見に行ったり、クリットと一緒に飲みながら彼の宗教的なお話を聞いたりもした。
心の中に、どこか余裕ができたのか、いつしか僕は≪時計塔≫の外側により自分の居場所を感じるようになっていた。

あと僕は退院してすぐ、クリットが紹介してくれた時計職人の女性に恋をした。そして2年ほどの交際の末、結婚した。結婚した翌年には第一子が生まれた。
今では、僕は妻と三人子供たち(なぜかみんな男の子たちだ)と一緒に一つ屋根の下で過ごしている。決して裕福なわけではないが、子どもたちの成長が今の僕の楽しみとなっている。



ある日、≪時計塔≫での作業中に内部構造の変化がおこった。僕は歯車に引きずり込まれないように注意しながら、安全な足場を目指して移動した。
上の階では、大きな声で誰かが何かを叫んでいる。どうやら、部品の一部に問題が生じているようだ。

「ペペ!ちょっと手を貸してくれ!精確で素早い対処が必要なんだ!」
声のする方を見てみると、クリットがヒゲに汗を滴らせながら、僕に手招きをしていた。

「今日も忙しくなりそうだな」
僕は汗をぬぐいながらつぶやいた。

≪時計塔≫の動きが落ち着き、問題個所に向かいながら、僕はふと自分が≪時計塔≫で事故にあったこと、そしてクリットに何やら悩み事を話したことを思い出した。
もう10年近く前のことで会話の内容は、あまり良く覚えていないが、思い出せないってことはきっと大したことではなかったんだと思う。

今日も≪時計の世界≫でチクタク・チクタク、時が流れていく。


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