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「3.11」と わたし Vol.23 土地の歴史と性格に付き合う村、飯舘

畜産農家 山田 豊さん

震災から10年の節目、
飯舘村に様々な立場から関わる人々が語る
自分自身の10年前この先の10年

今日の主人公は、畜産農家 山田 豊(やまだ ゆたか)さん。

豊さんは飯舘村出身。
震災直後にお子さんが生まれ、避難中は京都のお肉屋さんで修行をしていました。

今は飯舘村に大きな牛舎を数棟新築し、福島市に住みながら、村に通い、お父さんと一緒に繁殖農家を営んでいます。

村の次世代、いつでも誰にでもフランクな豊さん。
あっからかんと正直な語り口から紡がれるのは、
飯舘らしい地に足ついた今の想いと、ちょっと楽しそうな予感のする前向きな未来の話。


あの日の牛たち

あの日はこの牛舎でお産が間近の牛がいて、そいつがね、牛舎の中グルグル回ってたの。
だからなんかおかしいなと思って獣医さんに電話して、嫁さんと一緒に獣医さんが来るの待ってた。
嫁さんその時臨月で産休してたんだ。
上の牛舎で掃除してたら揺れ始めて、あ地震きたーって思ってたら凄い揺れが強くなってきて。
外に出て、嫁さんのところ行って、牛たちも動揺して唸りながら走り回ってた。
山崩れんじゃねーかなって。
でも飯舘は地盤が硬いから建物とかは実は被害少なかったんだけどね。

嫁さん十日後くらいに出産の予定組んでたんだけど、もうガソリンとかもなくなりそうだった。山形の友達の家が歩いていけるところに産婦人科があって、来なよって言ったもらえてね。当時1歳だった子供と嫁さん連れてそっちに。
牛は親父に任せっきりだった。牛なんかやってる場合じゃねえってなっちゃって。

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生まれた命と仕事の話

飯舘村が避難区域になった4月頭くらいかな、
俺は恥ずかしながら少しほっとしてしまって。
官房長官とかが村にきて説明会とか開いて。
牛いる家は避難出来ないから、臨時の競りを開くことになった。
飯舘の牛だけじゃないけど、1週間くらいかけて3000頭くらいの競りをやったんだ。
普通は1日300~400頭くらいなんだけど、それ以上の規模だった。
その頃は「ここでこんな物質が見つかった」とか「核の容器までいってるいってない」とか色んなことをテレビでずっとやってて、こりゃ誰も把握してないんだからちょっとやそっとじゃ終わんないなって。
その時にはもう子供が生まれてたんだけど、俺はもう部屋でそんなテレビを見てるだけの生活になりかけてた。
同居してたばあちゃんも心配してたよ。「もう畑うなったのかー?」って。
色々嫌なことも多くてね、でもこれじゃ生まれた子供にも良くないし、安心させる意味も兼ねて、仕事しなきゃなって。
一年か二年就職させてなんて言っても雇う側も困っちゃうから、上の子供が小学校に入るまでの4~5年っていう期限を武器に仕事を探した。
東京まで行って面接をしたら、そこの社長が事情を聞いて京都の系列のお肉屋さんを紹介してくれたんだ。
「京都の方が農家さんが近いからそっちの方がいいんじゃない?」って。
もうどこでも行くつもりだったから、面接で東京、そのまま京都と南へ大移動。

京都の肉屋で修行することになってから、今度は親父が喜んだ。
まだ、牛飼ってる意味あるんだって。
うち震災前の俺が大学卒業して一年目の時に、一回火事にあって牛殺しちゃって、一頭だけ生き残ったんだけどその時ほとんど0の状態になってね。
牛を0からやることの大変さがわかってたから親父は続けてた。
俺が肉屋で修行することで、そこに展望というか、意味を持たせられたなら良かったかな。

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土地の性格に付き合う村

あの時は飯舘に戻ってどうこうなんて誰も考えてなかった。
ただ、子育ても終わっている親父らの世代は、自分たちの土地どうしていこうかっていう責任はあったんだと思う。
そこらへんの心情を俺はまだ分かんない。
でもそれは、俺がその土地があるのが当たり前で育ってるからで、親父の更に前の世代の人たちは区画整備したり、山削って畑にしたりしてる。
畑やるとわかるんだけど、うなえば全部いい土地になるわけじゃない。
水が出てくる場所も石が出てくる場所もある。
そこにある歴史で土地土地の性格がある。
それに上手く付き合いながら農業してたんだ。
だから余計愛着もあるし、簡単に「代わりの土地あるでしょ」って言われても、そうはいかないし、そうはならない。そこに労力かけてるから。
逆にそういう思いがあるから、ひどい時でもお金にならない時でも頑張れるんだけどね。
「お金になんないからやーめた」ってならない。
歯食いしばって「ここ」をなんとかやろうってなる。
日本中どこ行っても耕作放棄地なんていくらでもあるけど、風当たんないとか日当たりいいとか条件のいいとこは、他所行ってももう残ってないのはみんな分かってるから。
誰が蒔いても上手く育つ土地ではないのかもしれないけど、土地の歴史と性格に付き合って工夫する、それをやれるのが一番じゃないかな。

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うちの牛たち

今は福島市に住みながら飯舘村に通って、母牛に子供を産ませて、十ヶ月くらい育ててから市場に出す繁殖農家をやってる。
買い戻したり、ここで生まれたのをそのまま肥育もしてみたり、色々試してみているところ。

コイツはオスだけど試しで肥育してる、
コイツは家で生まれたやつ、
コイツは最近初めて子ども産んだ、
この子はおばあちゃん、もうタネが止まんなくなったんだ。
やっぱりどうしても経済動物だから、一日いくらって餌代がかかる。
人によっては4回種付けして止まんなかったらもう肥育しないで出すっていう人もいるよ。
ウチは出来るだけ全部美味しくしたいから、肥育の餌食べさせて、なるべくしんどくないような脂にして出荷してる。
今までこういう経産牛の、言葉シビアだけど、子供産めなくなったおばあさんは老廃牛って言って、軒先で5万とか10万で買われて、最後はペットフードになりがちだった。
だけど今、お肉の値段が高くなってきたのもあって、こういう子でもちゃんとしたお肉になれば美味しく食べてもらえる。
肥育は今は半分実験、半分本番。
牛舎と草と牛、この3つがあれば牛は飼える。
農地の中で機械が入れないところを放牧地にしていけば、牛舎に頼らずとももうちょっと増やせるかな。
放牧大変だけどね、脱走したりとか色々。
でも飯舘の風景としては目指したいよね。

自分自身のこだわりはあんまないよ。
自然に、とはいうけどツノも切るし鼻環も通すし、自分の手の掛け方が足りなかったせいでいっぱい牛も殺してるし、まあ地獄に行くだろうなとは思ってる笑。
ただやっぱり俺らが使えない土手草とか稲藁とかを使ってくれて、堆肥を作ってくれて、それでやってきた村だったから、本当に感謝してるし、ありがたい。
牛がいてくれたおかげで村が続いたんだから。

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「美味しい」を求めて

近年はホルスタインの血が混じることで、大型で乳も出る温順な牛が増えてきた。
純血に近いのは、本能も凄い強くて乳も出にくし肉の量も少ない。昔の牛はこんなのばっかだった。
多頭飼いもしやすくなったけど、味の部分では遺伝が弱くなったり短期間で大きくなりすぎることで薄味になってしまったり、食べて脂がしんどいと感じる牛が増えてきてしまってる。
前に日本一になった牛を食べた時、俺の感想だけど、二切れで食べれないってなっちゃったの。
なんのために作ってんのか分からないなって思えてきちゃって。
それでも美味しいって思えるお肉はあって、今はそういう風な牛を作っていかなきゃいけないって思いがある。

今ウチは温順な牛も純血に近い牛もどちらも育ててるんだ。
純血だけでは小さいし管理も難しいから、経営的に上手くいかない。
どちらも織り交ぜながら、やっぱり色んな「美味しい」を追い求めていきたい。
10年やってきて一度だけ本当にとんでもなく美味しいお肉に出会ったことがあったんだ。死ぬ前にこれ食べたいって思うくらい。
一生やって作れるかどうか、くらいの話だと思うけど、一番に追いかけるのはそこかな。
貴重なお肉の資源を少量でも大事に食べる、それが日本の牛肉文化だと思うから、そこには納得できる味が大事。単純に「お肉って美味しい」って思ってもらえるように。それが結果的には日本の畜産のためになるんじゃないかと思ってる。


こんなのあったらいいよね

それプラスで、飯舘との兼ね合いとしては放牧をやって(親父が張り切ってて俺は正直大変そうだなあとか思ってるんだけど笑)、牛と一緒に土地を大事にしていけたらいい。
もう少し頭数が増やせれば、牛の餌を育てる農地も国の補填がもらえる形で再開できる。
さっきも言ったみたいに、経産牛だって、筋を綺麗に取ってあげれば美味しく食べられる。
食味は人それぞれ違うから、お肉屋さんの方がそれを分かって提供できればお客さんの満足度も違うよね。
俺も京都で修行する前は肉屋は買い叩いていくもんだと思ってたんだ。でも全然違った。
勝手に俺らが価値がないと思ってミンチにして100円200円で売るんじゃなくて、価値わかってくれる人とかその人にあったお肉を渡してあげられたら、500円でも私はスネが好きだってなってもらえる。ガッチガチでも噛んで噛み締めて食べるのが好きって人だっているかもしれない。
牛ってやっぱりコレで一頭だから。
部位があまらないようにパックで売ってたけど、そうじゃなくて「ここもこうやったら美味しいですよ」って一人一人に合わせて言ってあげられたら、牛を無駄にしない。

村に小さくてもそんなお肉屋さんがあったらいいよね。
切り込みとミンチとかはいつでもあって、それ以外は予約制みたいなのだったら準備もできるし。
畜産家としても、肉屋としても、飯舘村の土地にいる人間としても、
この十年での経験がそうやっていきていくような次の十年になるといい。

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