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「3.11」と わたし Vol.22 歩みを止めず、種を繋ぐ

までい工房 渡邊とみ子さん

震災から10年の節目、
飯舘村に様々な立場から関わる人々が語る
自分自身の10年前この先の10年


今日の主人公は、かぼちゃ農家 渡邊 とみ子(わたなべ とみこ)さん。

飯舘村で生まれた「いいたて雪っ娘」というかぼちゃ。
その生産、加工、販売、普及活動を行う、までい工房美彩恋人の代表です。

避難中もご主人と共に飯舘の種を繋いでいったとみ子さん。
一つの種から繋がり広がる未来への「までい」な歩み。


飯舘から白馬へ

2011年3月11日は福島市にあるMAX(ショッピングモール)でイベントに参加出店して、その合間に飯舘村の商工会に来て夫の青色申告に来てました。
無事申告が終わり、車に入って暫くしたらこれまで聞いた事のない音が聞こえ、風で揺れて私のオンボロ車が壊れたのかなあ位でいました。
それが携帯から発信された地震速報だったのでした。

揺れは物凄くなり、商工会の建物から税理士さんや職員さん達が一斉に出て来てあたりの電線の揺れが凄く、夫と息子は新しい現場で足場組み立てをすると言っていたので、怪我はなかったか?と気が気でなりませんでした。
心配で電話をしても携帯が繋がらない。
余震の合間をぬって家に着いたら、全員外にいて呆然としていました。

携帯も通じなくなり停電が3日も続き、情報を得るにはカーラジオからのニュースで様子を知るしかなかったのでした。
電気が通じTVから映し出せれた映像は津波で大変な被害になっているという事。
そして原発事故。
まるで映画のシーンのようで、とても現実の物として受け入れるにはショックが多すぎました。

そして、避難されて来た南相馬の知り合いなどに救援物資を届けたりしているうちに、飯舘村も放射能汚染が酷く、自主避難の説明を受け、ガソリン20L券をいただき、私達家族は3月19日に私の友人が長野県白馬村でやっている旅館に自主避難しました。
避難するにあたり、部落の班長をやっていた夫は村からの情報を配って歩いたり、私は避難先の連絡表と班の方々がどこに避難したかわかる範囲で書いて、残る人と役場に届けて白馬に向かったのでした。
夜中に着くと、温かいおにぎり、温泉、畳の部屋に布団も敷いてあり、何とありがたい事かと涙が出てきました。

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種をつなぐ

白馬では旅館の手伝いや自分達の賄い作りと、
当時、イータテベイクじゃがいもの馬鈴しょ植物防疫補助員をやっていた私は、間もなく作付の準備があるイータテベイクの種芋生産ができるかどうか、福島県や飯舘村の担当者とあれこれやりとりをしてました。

大変な状況の中でも種を繋ぐ事の為にかなり奮闘したのを忘れられません。

一旦、白馬村から戻り、班の総会をやり、けじめをつけて、
避難生活では収益もあげれなく生活していけないので、茨城県阿見町のかぶ農家さんに夫と出稼ぎに行きました。
そして、飯舘村が全村避難というのをニュースで知り、出稼ぎも約1ヶ月ちょっとで戻って来て、福島市に借り上げ住宅を借り、更に、遊休農地を借りて農機具もない中、まさに開墾していいたて雪っ娘の種を蒔いたのでした。

イータテベイクは育成者の菅野元一氏が避難先に畑を借りて種を蒔いていたので、私と夫はその圃場に通って手入れをしていました。
初めて経験する私の仕事の手伝いをした夫から「この仕事は大変だから朝早く起きてやれ」と言ってもらい、朝4時半に起きて車で30分かかる圃場に行き手入れをして、無事検査も合格して世の中に出せるようにしました。

いいたて雪っ娘も超粘土質の土地に種を蒔いたので、これで芽が出て育つのだろうかと不安の中での作業でしたが、あの一粒の種から芽が出て花が咲き、実がなっていく姿をじっと間近で手入れをしながら見ていると、
泣いてばかりいられない!諦めちゃいけない!と自分自身どれだけ励まされたかわかりません。

避難生活で、これまで見えなかった諸々のものが見えて来て、何度も何度ももうやめよう!と思ったか、わかりませんでしたが、結果的に種を繋ぐ事ができました。

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かーちゃんの力

畑の収穫も終わった頃、福島大学の千葉悦子教授から電話があり、かーちゃんの力・プロジェクトの構想をお聞きしました。
これまで立ち上げの仕事をして来た私に出来る事かもしれないので是非やらせて下さいと言って、私ともう1人、飯舘村の地域調査をやっていた五十嵐裕子さんがコーディネーターとなり、2011年10月19日から福島大学小規模自治体研究所の先生方と一緒にプロジェクトを進めてきました。

避難者でありながら同じ被災者を支援する事や自分達の生き甲斐作り、自立に向けての活動は当時とすれば凄い活動だったと思います。
全国にサポーターさんもでき、拠点のあぶくま茶屋には県内外や外国の方々も視察研修に来られました。
かーちやんの力・プロジェクトはそうした活動が認められ、農業賞、産業賞、東北復興ビジネスコンテスト、福島県ビジネスコンテスト、農水省のシニア女性団体で副大臣賞など数多くの賞をいただきました。
あの時、先が見えないと泣いてたかーちゃん達に、多くの方々の支援、応援をいただいた結果であり、一緒にいただいた賞であると思っています。

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ふたりで夢見たその先へ

2017年3月31日をもって飯舘村は避難解除になりました。
それに伴いかーちゃんの力・プロジェクトは卒業させていただき、本来の仕事、までい工房美彩恋人やいいたて雪っ娘の生産にシフトを移してやってきました。
かーちゃんの力・プロジェクトの終盤期に夫の癌が見つかり、手術をしたりと、本来なら、早くプロジェクトを辞めて夫に寄り添いたかったのですが、立ち上げをした私の責任感と夫の奇跡を信じてプロジェクトを全うさせていただきました。

私達夫婦はいつも一緒の方向を向いて同じ夢・目標を持って生きてきました。
いいたて雪っ娘ファンクラブの方々が我が家の畑に年4、5回来られて一緒に作業してくださってる時、飯舘の家に皆が集まって自由に過ごせる空間作りしたいと言いました。
そして夫は、「俺は大工を辞めていいたて雪っ娘を作るんだ」と張り切っていました。

避難解除になり新しく畑も借りて面積を増やして頑張っていた中、2018年脳転移、更には帯状疱疹になり、病院へ入退院の繰り返しとなり、主治医から歳越せないかもしれないからと言われ、終末は在宅で看取る事にしました。
たった1ヶ月間でしたが、24時間夫の側で濃密な時間を過ごせました。
こうして綴っていても涙が溢れて来てしまいます。

大切な1番の理解者を失い、事あるごとに夫を思い出しながらも、
2人で夢見た事に向かって、今も決して歩みを止めないで前へ前へと進んでおります。

いつどこで災害が起こるかわからない世の中になりました。
私にとって、これまで応援していただいた方々への恩返しの時期になりました。
これからは出来る時に出来る事を必要な方へをモットーに恩返し、恩送りの気持ちを忘れないで生きていきたいと思っています。

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関連サイト

までい工房
https://madeikoubou.thebase.in/
いいたて雪っ娘の加工食品などをご購入いただけます。

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