「3.11」とわたし Vol.19 飯舘が守った「村」という共同体
100人目の移住者 塚越 栄光 さん
震災から10年の節目、
飯舘村に様々な立場から関わる人々が語る
自分自身の10年前と今とこの先の10年。
今日の主人公は、飯舘村の100人目の移住者(※)で、
2017年から「までい大使」(村のPR大使) もつとめる 塚越 栄光 (つかこし ひでみつ) さん。
震災以降、ちゃんと被災地に届かない支援活動に疑問を感じ、
たくさんお金をかけずとも、確実に現地に届く支援を始めました。
渋谷の商店街で育った「花」を使ったその支援活動が、
栄光さんと飯舘村の心と心をがっちりとつなぐきっかけに。
最近は、渋谷から飯舘に寄贈された忠犬ハチ公オブジェの維持会も設立。
人々の出会いや語らいをそっと見守るハチ公がいる村、という設定で、
渋谷と飯舘の架け橋となりながら、PR活動を展開中です。
※東日本大震災の発災時に住民登録がなく、平成29年3月31日の避難指示解除(長泥地区を除く)以降に転入した人の中で、定住の意思を示していただいている方を「移住者」としてカウントしています。
違和感からの始まり
2011年3月11日は、渋谷区内で庭づくりの仕事をしていました。
都内にいて今まで感じたことのないような強い揺れにあい、震源はすぐ近くだなとそのときは思いましたが、震源が宮城県沖の東京から遥か離れた場所だと知り、すごく驚いたのを覚えています。
その夜からしばらくの間放送される地震津波原子力災害のニュース。
日常生活では計画停電や燃料不足などで、仕事が正常化するのには2ヶ月ほどかかった記憶があります。
その後は全国的に被災地を支援する活動が活発化し、国や都道府県の自治体も支援するために必要な予算が組まれ、いろいろな取り組みをしていましたが、私はそのやり方に違和感を感じていました。
(結果的にこのときの思いが私と飯舘村のつながりのきっかけになりました)
予算申請をするものが企業法人等の組織であってはいけないという事から、申請をするのはNPO法人であったり町会だったり商店街だったりする。
しかし、申請書と事業計画の内容予算規模等含め作っているのは広告代理店やイベント会社。
もちろんこれらが運営も行いますので地元にも被災地にもお金が落ちる事はなく、結果、無料で場所等の提供になってしまっていました。
企画の予算請求をNPO法人や町会等の名を借りて
国と東京都と両方に同じ企画を送り活動費用を作り
その事実を知らない学生たちが必死に活動すると言う
驚きの被災地支援が東京では繰り広げられていました。
私も仕事の一環とは言えその中の関係者として現場で強い憤りを感じながら
地域では今までに1度も使ったことがない高額な予算で
被災地に全く届かない活動を行っていたのを覚えています。
渋谷で育った花をきっかけに
当時私は渋谷の公園通商店街の美化活動の一環で、お花を植える仕事の依頼を渋谷公園通り商店街から依頼されていました。
商店街にきた人たちに街で自然を感じてもらえるように、季節ごとに花を植え替えていたのですが、植え替えのときにはまだまだ状態の良い花も廃棄処分にしていました。
もともと花の仕入れ先が福島県の浜通り地域だったと言うこともあり、津波でハウスなども流されてしまいしばらく生産できない状況の生産者さん、そして地域の人たちが花を見たり育てたりしたい人が少しはいるだろうかと思い、渋谷の商店街で育った花をもらってくれる方、欲しい方の聞き取り調査を商店街の仲間たちと、岩手県宮古市から福島県いわき市まで行いました。
その結果15カ所地域や施設の方々が渋谷で育った花をもらいたいということになり、2011年8月から活動が始まりました。
その中の施設に飯舘村の特別養護老人ホーム(いいたてホーム)と、村立臼石小学校、草野小学校、飯樋小学校がありました。
私と飯舘村の関係はここから始まりました。
先にお話しした、予算があるから支援活動ではなく、予算がなくても出来る範囲で支援活動を、渋谷の地元の方々と一緒にやりたかったと言う気持ちでした。
それからは少しずつですが切れることのない継続的なやりとりが、渋谷公園通商店街と飯舘村とで続いて行きました。
2013年6月には渋谷公園通商店街振興組合から飯舘村に帰村のシンボルとして、忠犬ハチ公のオブジェをいいたてホームに送りました。
(渋谷区観光協会及び忠犬ハチ公銅像維持会協力)
2016年12月には渋谷区神南1丁目の公園通り商店街が管理している花壇に、飯舘村産の青葉石(御影石)にまでいライフと掘られた石碑を、文化交流の一環として設置することができました。
(臼石 三浦工業 三浦健一さん制作)
2017年5月から今に至るまでこの花壇には飯舘村産の花を植え続けています。
この花壇に植えた花のお手入れは地元渋谷の商店街町会の方々地元ボランティア団体など、多くの方々が飯舘村の花を大事に育てています。
2020年8月に私は飯舘村に移住しました。
飯舘が守った「村」という共同体
村では、植物やお庭にまつわる仕事をしていて、依頼の内容によって現場の場所は様々です。
結果的に仕事の拠点が複数の場所になっていますが、飯舘村が私の心が安らぐところになっています。
10年先どうありたいかをうまく想像することはできませんが、今から10年後になるまでの間のすべてのことが、未来の私にとって良い思い出になるようにしたいです。
平成の自治体大合併の荒波を乗り越えて、
飯舘村の方々が守った「村」と言う名称の共同体は、
間違いなく未来では貴重になり
その名称を失い町民や市民になった人
そして都市で暮らす人々にとっても
飯舘村が「村」の原風景になることが
近い将来やってくると思います。
人が行き着くところは決まりや仕組みがしっかりしているところよりも、人と人との交わりがしっかりしているところに落ち着くと思います。
その場所が飯舘村だと思っています。
飯舘村移住者100人フォトニュース
https://www.vill.iitate.fukushima.jp/site/photonews/6114.html
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