多様性を受け入れるという虚無感
今日は朝から慣れないことに従事して
事務所に戻って来てからも
ディスプレイ越しのやり取りにいささか疲労困憊気味。
今日のタスクはまだ手付かずで夕刻近いというのに
まずは休憩してしまう自分にがっかりだ。(笑)
「多様性」
今日このキーワードをなぜ取り上げたのか?
朝から慣れないことをしたと書いたが
その慣れないことと言うのが
専門学校での授業を動画配信するため動画を撮影だ。
一方通行のひたすらスライドを見せながら原稿を読み上げるという作業。
今年も昨年に引き続き
「持続可能な開発目標(SDGs)を取り上げる。
17の開発目標の主旨を朗読していていくつかの文章に鳥肌が立った。
余りにも過酷である世界の状況に。
依然 5歳を待たずして命を落とす子どもたちが数多く存在する。
妊娠、出産で命を落とす女性は1日に数百人。
それでも、淡々と読み進めなければ撮影は進まないから
必死で読み上げる。
読みながら、自分も含め私たちは世界や日本の状況をどれだけ
本当に理解しているのだろうと思う。
例えば目標1である貧困に関すること。
目標2飢餓に関すること
目標4教育に関すること
私たちは勝手に⇒で繋げて捉えている。
もちろん全ての開発目標はお互いに深く双方繋がっているのだけど
しばしば一方方向にのみ考えてしまう。
貧困であれば食料の安定確保ができず栄養状態が良くないと
考え、貧困家庭への食糧の提供を優先的に考える。
貧困であれば、公平で質の高い教育を受けることができないと想像する。
もちろん、発展途上国であれば私たちが想像するような状況が垣間見られるのだろうが、私たちが暮らす日本であれば、その様態が複雑になっている。
貧困ではないけれど、質の高い教育を受けることができていないと
自分自身で栄養を考えた食事をとることができない。
お金を持っていてもそれで、何を買って食べるか?と言うことの選択を誤れば自分の心身は健全に育っていかないのである。
想像できないかもしれないが、現代社会において
栄養失調になってしまう子や人が居るのだ。
単純にお金を出せば質の高い教育が受けられるとも言えず、
お金儲けの種に子どもたちがされてしまうことも。
SDGsの原稿を読んでいる時にも何度も出てくる「多様性」と言う言葉においても、多様性を受け入れてほしいという側のほとんどがマイノリティーと言われる立場にいる人で
では、反対にマジョリティである人たちの事をマイノリティーの人たちはどれだけ受容するのだろうか?と考えると「個性のない奴」とか言ってバカにしていないか?とも思うのだ。
また人類全体が全ての生物多様性を大切にせず、環境破壊を行ったことで干ばつなども誘発され、農業が大きな打撃を受ける。
このコロナの打撃を考えると
私たちは自分の食べるものくらいは安定して生産できないといけないと痛感し、問題がより深刻で複雑で解決が急務であることを突きつけられるとなんだか持続可能な開発目標を掲げ、それを達成しようと考えていること自体が虚無感に襲われるのだ。
でも、だからこそ
絵空事ではなく自分が実践できることは何なのか?と考える。
行動する。
障害があっても、この地球の危機は理解できる範囲で理解してほしいと思うのだ。
だから、学ぶ機会を提供し続ける。
地球規模で考える思考を獲得する。
それが結局は脳にもとっても良いのだ。
いろんな脳領域も刺激する。
神経ネットワークが繋がっていく。
虚無感なんかにさいなまれている場合じゃない。
学ぼう、考えよう、実践しよう。
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