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 あまり、後悔することがない。
その時に最前と思えることを行動に移すことが多いから。
その都度 自分なりにやり切るから・・・。
その後がどのように進んでも納得してる。

そんな私が数か月前に後悔と懺悔の念にかられる出来事があった。
そして、これまた私には珍しくその後悔したことを修復できないかと
行動にうつした。
うまくいくかはわからないけれど、
とにかく私がした決断を謝って
今からでも出来ることはないかと考えられることをいくつか提案した。
とにかく相手がそれを受け入れるか、どう思うかは別として。

どんなことを後悔、反省したかとざっくりと言うと
「若者を早くに私のところから卒業させてしまったこと」

この判断の間違いは、
何という顕著な生きずらさが一見見られない若者を迷わせ、
惰性の中で生きる人生を選択させてしまう結果になっている現状は
いまの現代社会を浮き彫りにしているようだった。

とにかく若者の必要なサポートが無さすぎる。
その結果、彼らは「あきらめる」とか「限られた選択肢の中の一つ、自分は何一つ納得していない生き方」を選ばなくてはならない結果になってしまっているという残念な社会。
女性の力を社会に活かすこともとても大切だと思うし、
障害者などのマイノリティーの人たちの力も同じ。
けれど、本来は経済活動を行いながら
社会貢献できる力を持っている人たち、
「障害」にするほどの深刻な生きづらさではない若者たちが
もう自分が選択できる生き方の少なさに
「障害を受容」するほかないと追い詰めてします。
(でも、障害を受容したところで彼らに希望が生まれるか?と言うとそんなことはないことがほとんどなんだけれど。それについては以前記事を書いています。)
あるいは、「障害」を受け入れることができない人はずっと悩み迷う人生を送ってしまうことにもなってしまう。
生きづらさの種類や程度がみんなそれぞれ違うから
それこそ「特別支援教育」のように
ニーズに合ったサポートが必要なのに
学生が終わり、社会人になる帰路に立たされたとき
「キャリアサポート」しか存在せず、「障害や困りがあります」てことでの
就労サポートしかないのだ。

企業が大学で配慮を受けた学生を「障害者」としてみるのではなく、「能力」をみて採用することはとても難しい。(新しいベンチャー企業ならともかく)
第一、大量のエントリーシートを書き、
応募する作業に追われる大学の就活は
自分の向き不向きなど考える余裕などなく
「とにかくどこかに内定をもらわなければ」
と言う呪縛にとらわれてしまう。

話しがそれてしまった・・・。

私が後悔したこと出来事、
名の知れた大学に進学し、
休学中に私のところにサポートを求めてやってきた。
2年くらい通っただろうか。
月1回
そのうちに『生きづらさ」が軽減していき
その「生きづらさ」と上手に付き合えるようになり、
復学して学校に通えるようになった。
夏休みなどもアクティブに動いているようだった。
だから、私は言ってしまったのだ。
「もう、大丈夫なんちゃう?私のところを卒業しても・・・」って。
そして、やまもと先生がそう言うなら。と言って巣立っていった。

なのに、なのに、
数か月前に人づてに聞いた現状は
私の予想を裏切った。
あかん!そうやった!
パッと見、何も困りが無いように見える彼らは
言われたことを素直に守り、
上手に指示したとおりに行動することができるのだった。
で、自分一人になってもうまくやっていけるだろう
と勘違いされるのだった。

もう少し、シッカリと自分の人生を見つけるまで
自分の生き方が見つかるまで繋がっておくべきだった・・・。
と猛省した。

今の若者たちの育ちは
やはり、昔よりも時間がかかる。
もちろんスムーズに社会に飛び出す人もいるだろうけれど、
同じ22歳ではまだ社会に順応して生きていくには
未熟である若者も少なくない。
もう少し、社会に出ても自分のことが自分でしっかり守れるくらいの人間力を付けてからでないと「しあわせ」に生きていくのが難しいのだろう。

私が見誤った若者も
「このままだったら幸せに生きていけないと思った。」と言っていた。
だから、惰性であっても今の彼をとにかく受け入れてもらえる環境を選択するしかないのだった。


だから、私は少し後戻りして
彼の絶望に近い思いを
希望へとつなげることができるように
彼にとっても
そして、私にとっても良い方法、
人生が拓いていくサポートができればと考え、行動している。

多くの一見どこに「生きづらさ」があるのかがわからない若者に
必要な助けはどこにあるのだろうか?
仕事に付きさえすれば幸せなのか?
どんなふうに支えてあげると「
自分を見失わず強く前へ進んでいくことができるのか」
を今サポートする若者たちを育てながら
その方法を私自身模索していきたいと思う。

とうとう、ここまで来てしまった。

幼子の発達サポートからスタートした発達障害児支援が
障害の有無など関係ない若者の生き方サポートへ。

彼らのような能力がある人たちを活かすことができない社会は
なんか間違っていないか?
わかりづらい学びづらさや生きづらさを抱える若者を
どのように支えていくのか?
は単に障害があるとかないとかを基準にしてしまうと
彼らが必要な育つために必要な環境や時間を与えてあげることができない。

学生が終わった後も、アルバイトしながら
あるいは仕事に付きながら
サポートと言えずとも
応援、力をもらえる場所が必要なのではないだろうか。
そんな場所をうまく見つけてほしいと願うのだ。

で、私はこれらか彼らを支えることを
また新たにスタートしたいと思うのだが、
私が犯した間違いをはたして彼は許してくれるだろうか。


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