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庭の草さんたちが教えてくれたこと

変人だと思われるからと
家族からは口止めされているのですが、
noteならいっかなぁ~?と思い、記します。

私はかつて草抜きが嫌いでした。
理由は大変だからではありません。

いつもなぜか
悲しく、泣きたくなっていたからです。
といいますか、
草抜きながら 泣いていました(´;ω;`)ウゥゥ

できれば害虫と言われる虫も
殺したりもしたくない。

どうにかご飯を食べずに
生きられないものかと思い、
不食を模索したりしていました。

ある日、
わが家の草ぼうぼうの庭で
一人おいおい泣きながら
愛犬のために仕方なく草抜きをしていた時

声みたいなものがかすかに
聞こえてくるのです。

恐らく…?
抜かれる草さんたちの声なんだと思います。

内容は
悲しくならなくていいし、
泣かなくていいと
私を慰めてくれるのです。

草さんだって命があるのに
私の都合で命が奪われるのは
辛くないの?と
尋ねました。

すると
確かに自然は常に
命を繋げ拡大しようとするが、
辛いとかはないそうなのです。
ただそうあるだけ なんだそうです。

草さんたちが言うには
所有している感覚は人間特有だというのです。

つまり、常に完璧だからこそ、
何があっても、いつ今の形が終わったとしても
執着はないというのです。

「今 この場所で この一瞬を
 できる表現をするだけよー😊」
てな 感じ。

理由として
常に繋がっていて形が変わっても
循環し、途切れることがないのが
いのち だから  と。

だから、災害であろうが
抜かれようが、食べられようが
それらも 今 できる いのち を
表現しているだけなのだから
問題はないそうなのです。

食べられたり、分解されたり
形を変えて、場所を変えて
また違う形、組み合わせで
表現されるだけよ~。
と あっけらかんと
軽く微笑んだ感じで答えてくれました。

その形は無くなって見えてしまうかもしれないけど、
そもそも同じ一瞬なんて一度もないのだから
同じように見える中でも
常に死んでると言ってもいいし、
生まれてもない(笑) とも。

「分離、所有、執着、制限」は
人間特有の感覚だそうです。
時空間制限 ありきの感覚だそうです。

自然にとっては
人間の方が 不思議に感じるそうです。

所有感を持ったことがないから分からないが
失うこと、なくなることが辛いってなに? みたいな。

そもそも人間も分かれてないのにね…と
分離の感覚になったことがないので
むしろ 不思議で面白いみたいです😊

自然も 草さんたちも
表面的には分かれて見える姿、
会話しているような感覚も
実は私(人間)のフィルターを通すからこそ
このような 分離した言葉や見た目になるそうで
ふわぁーとただ温かく軽く広がっている
だけのもので、本来は一つなんだそうですよ。

しかも 
私が見えてるものは私でしか分からないらしく
実は人間一人一人
全員 見え方、色、音も全部 全く違うそうです。

だから、好きなように抵抗感なく
気持ちよく過ごせる庭になろうが
ぼさぼさでいようが
どっちでも いいよーって。
表現、現れは無条件で無限だから。

てか、勝手に循環してるのを
人間機能が好きに見てるだけだから、
好きなように見てればいいよー
と。

だって みーんな繋がってるから。
ねぇー。と庭が合唱。

自然界では
場所取りとか競争とかの感覚はないの?
と聞くと、
そもそも 元々わかれてないし、完璧な表現だから
人間も含めてなるようにしかならない。

自分たちでしてることなんて
何一つないから 
何がどうなってるいるか
分からないらしいです。
そもそも 分かれてないから。

場所を奪い合うというより、
あるから ある といった感覚です。
ないといえば ない。

しかし、違う人のフィルターからみると
奪い合いに見えることもあるのだそうです。
それは その人に奪うとか競争とか
怖れの感覚のフィルターから見るからだそうです。

人間は自然の場所を奪ったり
自分のものと勘違いしたり、
人間中心で考えたりしてるけど、
嫌じゃないの?その辺はどう?
とさらに私は尋ねてみました。

そもそも、人間も全体の一部だし、
何かをしているように見えるけど、
誰も何もしてないよ、と笑います。
(そうだった…(;'∀'))

してるように感じてるのは
勘違いだそうです。
主体感、特別、個体感
みたいなものは
草さんたちには一切ないそうです。
なので執着がないのです。

つまり、人間の次元では
一人一人のフィルターで
各々好きなように自分を含めて
体験し、見ているだけのようですね。

先にも記したように
私のフィルターだからこそ
このような翻訳になりますが、
同じ場所にいても
人によって翻訳は様々です。

なので、この記事も
近い感覚を持つ人には
理解、共感できたり
離れた感覚の人には
嘘や法螺(ほら)に感じることでしょう。

幽霊、妖精、宇宙人も
いる人にはいる世界にいるのです。

独自の分離機能を使って
見たいように見ているだけです。

草さんとの会話も
私の自問自答みたいなものなので
万人共通の世界ではないようです。

つまり、今 私がパソコンを打っていることも
草さんたちと会話していることも
ただ、私の表現として勝手に起こっていること
であり、個別の表現というより
私の単なる現れの一側面、
言い換えれば 全てが奇跡

全てがあるがまま。
なされるがまま。
各個人のプログラムが
勝手に展開されている感じ。

他人にとっては 全て嘘。

なので、
あー 貴方はそういう世界なのね とか
そういう世界に住んでいる人もいるのね
くらいに思っていただけると 幸いです。

人間は勝手に循環を分離して感覚で
解釈をつける。
思考という機能がついているのが
その解釈の独自性が自分感なんだそうです。

勝手に起こっていることを
人間は制限的に解釈をつけて 
自力でしているよう勘違いして 
自力で成し遂げているように
感じているだけ。

思考、解釈すらも
実は勝手な現れなんだそうです。

ホントよくできている\(◎o◎)/!
この自分感。

そう感じるのも勝手な起こりだなんて。
理解、解釈しているつもりの 
実感、体感。

ないけど ある。
あるけど ない。

自分であって 自分でない。

?????
混乱ですよねぇー😊

この草さんたちとの会話も
ただの現れなのかー。
という思いも単なる現れ(笑)

事象の隙間に 
すかさず 個人の解釈がつく。

あまりにも 間がなく つけるので
自分が考えているように勘違い。

恐るべし 人間プログラムの自分感。

各々の定義、観念、概念のフィルターで見るので
自分感が生まれる。
(同じ物は二つとない)

ではそのフィルターが
自分といえば自分といえるのかもですね?
(時空間のみ)

この独自のフィルターも
勝手な起こりなので
記憶もその時に起こった勘違い。

自分感は
時空間にしか存在できない
幻です。
光の一側面です

時空間を超越した時
全ては非ずが明らかになるそうです。

相対性理論にもあるように
光の速度と一致した時、
時間は止まる(時が消える)
と言われてますもんね~。

つまり、
私たちは光で
体験しているのは 
概念の影という感じですね。

ある時 私自身
自分がおたまを持っているか
おたまになって持たれているか、
分からなくなる時がありました。

恐らく、それが分離のない自分=世界の感覚を
かろうじて実感した時なんでしょう。

無我(我は無い)ではなく
非我(我に非ず)の段階といえば
いいのでしょうか。

この 時空間でいえば
思考が消え、解釈がつかなかった一瞬
だったのかもしれません。

完璧に一つとなるとき
無我となるのかもしれません。

無我の時は 感覚も全てない状態
同時に可能性が無限大なので
全てが無条件に生み出されるという
場 全て ということになるそうです。

しかし、この時空間の制限をもつ
人間という形の状態では
それを体感することは無いそうです。

本質は
全て 無(0)だから。

つまり、
草さんたちは私自身が見ているだけで
草さんたちも私自身も会話もこの記事も
時空間外では
全て存在してはいないようですね。

時空間の制限外では
生まれてないので、始まってもない。
なので
死ぬこともないし、終わりもない。

自分も自分の世界も
時空間ありきの存在という
訳ですね。
反対に
自分があるから 時空間が存在している
必要十分条件の関係
とも言えます。

これも 各々体験、概念で異なるので
真理ではないようです。

この記事は 私が体験した
単なる一側面のお話です。

これらの体験は
私の脳機能が
少々おかしいのかもしれませんね。

最後までお付き合いいただきまして
ありがとうございました。


















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