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村上春樹の考える「小説の役割」とは何か?
この記事では、村上春樹の考える「小説の役割」について、わりと本気で考察していきたいと思います。
もしかすると、あなたの小説観が一新するかもしれません。
あなたが考える「小説の役割」は何ですか?
まず、村上春樹の考えを聞く前に、ぜひ自分で考えてみて下さい。ほんの15秒でいいです。
あなたは「小説の役割」とは、何だと思いますか?
・・・・・・・
とても考えにくい質問ですよね。もしかすると、長い時間を掛けたとしても、なかなか自分で納得のいく答えを出せる、と感じる人は少ないのではないでしょうか。
でも、安心して下さい。プロの作家も悩んでいます。これは2021年に『彼岸花が咲く島』で芥川賞を受賞した李琴峰さんの発言です。
李
文学は、たとえば中国文学なら四千年くらいの歴史があったり、創作物のなかでは歴史の長いジャンルですよね。だからその時々でいろんな意味を付与されてきた。
たとえば中国の一番古い詩集で『詩経』という民衆の詩を集成したものがあるんですが、その冒頭の詩「関雎」は、美しい女は君子のいいパートナーになるんだという内容で、言ってしまえば、若い男女の求愛の詩です。
春秋戦国時代にはそうだったのですが、時代が下って漢の時代になると儒教が発達してきて、既に古典になっているような詩にも政治的な意味づけをしないといけないとなって、教育的な意味で、これは妃の美徳を讃える詩だということになったんです。それが千年以上も続いて、近代になって、それは違うでしょというツッコミがもちろん入るんですが。
またいわゆる四大奇書のひとつである『紅楼夢』は、一言で言うと恋愛小説なんですが、共産主義の文脈で読まれると、古い封建社会に反抗する政治的小説という解釈になりました(笑)。
つまり文学はそれぞれの時代、それぞれの社会的文脈によって、いろんな役割を求められたり解釈を与えられたりしてきたわけです。映画もレコードもない数千年の長きに亘って、文字による文学は創作を一手に引き受けていたんですね。
逆に、現代は文学以外にも、さまざまなメディア、手段がありますから、文学にできることはなにか、常に考えます。もちろん、それは個人の小さな宗教だったり、個人が生き延びる手段であるんですけど、もう少し広く社会的な視点で見たときに、小説にしかできないこととはなにか、小説の存在意義とはなにか、考えるんですけどなかなか答えは見つからないです。
ここでは、
・文学は、時代ごとに異なる役割を与えられてきた
・現代は、様々なメディアが台頭した時代
・この現代で、小説しかできないことは何だ?
・小説の存在意義は何なのか?
・考えているが、答えは見つからない
流石プロの作家だけあって「現代社会における小説の役割とは何か?」ということで、中国文学4000年の歴史の中で、時代ごとに文学がどのような存在意義を持ってきたのか、という流れを踏まえたうえで、現代の小説について考えておられます。
しかし、なかなか答えは見つからない、と。
そうですよね。そんな簡単に答えが出るほど、シンプルな質問ではありません。中学生頃からずっと小説を書いてきて、職業作家になった李琴峰さんも、まだ考え続けているくらいですからね。
ということで、この「小説の役割とはなにか?」という問いの壮大さについて感じることができたと思います。前置きはこのくらいにしておいて、さっそく本題に入りましょう。
では、村上春樹さんにご登壇いただきます(笑)
村上春樹の考える「小説の役割」とは?
大事なことは人が「自分で考える」ということであって、そのための有効な興味深い長いスパンのテクストを提供するのが小説の役目です。 答えを与えることが小説の(文学の、と言い換えてもいいですが)役割ではない。それが僕の考える現在の、高密度情報社会の中での「小説的責任」の姿です。
はい、我々の問いに対して正面からお考えを述べられております。しかも、「高密度情報社会の中での」ということで、現代における小説の役割という視点がしっかりと入っています。
ほとんどの人が、この発言を読んで、さらっと理解した気になってしまいます。流してしまうんですね。「へぇ〜なるほど」と心のなかでつぶやいて、スルーするんです。
しかし、私は彼が大真面目にこのようなことを語ったとき、それが具体的に何を意味するのか?について考えるのが好きなのです(笑)ということで、彼が何を言っているのか、じっくりと考えていきましょう。
以下に彼の主張を整理しますね。
村上春樹は、
高密度情報社会(現代)において、
1)小説の目的は「読者が自分で考えること」
2)小説の機能は「テキストを提供すること」
3)そのテキストは「有効な興味深い長いスパン」
4)間違っているのは「読者に答えを与えること」
であると考えている。
まず分かるのは「読者が自分で考えること」が、村上春樹の考える小説の目的であるということですね。
そのために、つまり「読者が自分で考える」ために、小説は「有効な興味深い長いスパンのテキストを提供する」という機能を果たすと。
これが現代社会での小説の役割ということになります。
小説の役割は「人が考えるためのテキストの提供」であり「人に思考停止を促す答えの提供」ではない、と。
まだスタートしたばっかりですが、これだけでも、ちょっと新鮮な答えだと思いませんか?
答えを与えてしまったら、受け取った側は思考停止しちゃいますね。やりたいことは、その全く逆なんです。
村上春樹は、小説を通じて、読者に自分で考えさせようとしているのです。
ふむふむ。なんとなく分かりますが、まだまだざっくりしていますね。もっと具体的に考えていきましょう。
人に自分で考えてもらうのは、至難の業である
ところで、人に物事を自主的に考えてもらうのって難しいですよね?
私もこのnoteの冒頭で、ほんの15秒でいいから「あなたが考える小説の役割とは何か?」考えてみて下さい、と問いかけました。でも実際に、真面目に考えてくださった方は少ないのではないでしょうか?
そう、考えるのってエネルギーがいるんですね。大変なんです。
なるべく難しいことは考えないで生きていたいですよね。500円で美味しい牛丼が食べられるし、YouTubeには面白い動画が無料で転がってるし。おそらく深く自分で考えるという行為は、生存するのにそこまで必要ないんです。
というか、むしろ深く考えないほうが、お金は稼げます。
さすがにイーロン・マスクや孫正義など何兆円稼ぐみたいなレベルになれば、地球や人類の未来について深く考えないと難しいかもしれません(笑)でも、99%の人たち、例えば一部上場企業で働いているエリートビジネスマンたちは、どうでしょうか?
彼らが新品のメルセデス・ベンツを乗り回していたり、あるいは毎年必ずハワイ旅行に行ってたとしても、別にあんまり深く考えていない場合がほとんどでしょう。もちろん優秀で仕事はできるのですが、それと深く考えるということは異なります。
別に大学なんか出なくても、気合を入れて朝から晩まで働けば、ある程度、好きなように暮らせるわけです。
逆に、あんまり深く考えすぎるとお金が稼げないんじゃないでしょうか(笑)だって、哲学者ってみんな貧乏ですよね?(笑)芸術家も稼げないからパトロンが必要だったのでしょう。
そのように生存本能的にも、社会の仕組み的にも、自分で考えるってあんまり求められていないですね。
というか、むしろ「自分たちであんまり考えさせないように社会が設計されている」のではないでしょうか?
権力者や社会構造が、常に我々に思考停止を促してくる。難しいことを考えさせず、アメとムチを用いて経済を回す歯車となることを催促する。小さな違和感から目を逸らすようにして、足元に幸福があると信じ込ませる。
恐ろしいですね・・(汗)これに対抗するには相当なパワーが必要です。
そう、人に自分で物事を考えさせるのは、至難の業です。
村上春樹は、このかなりチャレンジングである「読者が自分で考える」ということを、現代における小説の目的としているのです。
(この方向性を掘り下げていくと、エルサレム賞の受賞スピーチ「壁と卵」の真意が見えてきますが、それは別の記事で深堀りします)
ということで、このめちゃくちゃ難しい目標を達成するために、小説は何を提供するのでしょうか?
それが「有効で興味深く長いスパンのテキスト」です。
繰り返しますが、ただのテキストではありません。
有効で、興味深く、長いスパンのテキストです。
我々の想像を絶するほど徹底的に考え抜かれている文章
深堀りを続ける前に、ちょっとだけ「しらふの状態」の村上春樹の文章について、考えてみたいと思います。
村上春樹の小説作品の謎解きをする人たちは、かなり熱心に「直子が自殺したのはなぜ?」とか「免色さんは一体何者なんだ?」とか読み解いていきますが、私はインタビューやエッセイなど、しらふ状態の村上春樹の発言を紐解いていきます。(詳細は、こちらの記事を参照下さい)
その時の私の心がけは、シンプルですが「一言一句」見逃さないことです。
なぜなら、村上春樹は文学史に名前が残るような作家ですから、公の場に流通する自分の文章に対しては、我々の想像を絶するレベルでこだわっています。これは間違いありません。
だって僕らは、「カフカの恋人への手紙」とか「夏目漱石の留学中の日記」とか、本人たちは絶対に他の誰にも読まれないであろうと思っていた個人的な文章を引っ張り出して、100年後に読み漁っているわけですよ(笑)
しかも、頼まれて仕方なく書いた書評とか、自著のプロモーションのために受けた新聞のインタビューとかですらなく、ラブレターと日記ですからね(笑)
ちょっと話がそれますが、有名アスリートであれば小学校の卒業文集で書いたことが掘り起こされますよね。イチローとか本田圭佑とか大谷翔平とか、よく見かけます。
あるいは、スティーブ・ジョブズのレベルになると、死ぬ瞬間につぶやいた最後の一言、みたいな真偽の確かめようのない情報まで流通します(笑)
そういった様々な分野の著名人の中でも、特に作家の場合は、その人の言葉や文章に注目が集まるので、それがどんな形であれ後世に残された場合は、必ず徹底的に紐解かれる運命にあります。
おちおち、適当なことを言えないのです・・!
実際に、今ここで私たちが、村上春樹の一言一句を読み解いているように、それが例えどんなにマイナーなメディアに掲載されたものであろうと、未来の人間が自分の文章をとことん分析することくらい、村上春樹だって分かっているはずです。
なんてったって彼本人も、過去の作家たちの日記やラブレターや草稿を興味深く読み込んでいるわけですから。
しかもですね、ここで私たちが扱っているテーマ「小説の役割とは何か?」という非常に大きな問いです。
この問いは、小説家にとって最も重要な問いの一つでしょう。村上春樹にとって、自分が一生を捧げてきた「仕事の意義」について語っている瞬間なわけですから。
今も昔も様々なタイプの小説家が存在している中で、とりわけ村上春樹は、小説一本で生きていく、というような芸術至上主義的な生き方を貫いている人です。
ですから、彼が小説の存在意義について語るということは、ほぼ自分の人生の意義について語っているのと同じレベルで重要なはずです。日記で、自分に向けて書いた今日の気持ち、みたいな文章とは重要度が違います。
だからこそ、そんな彼が「大事なことは、人が自分で考える、ということであって、そのための有効な興味深い長いスパンのテクストを提供するのが小説の役目です。」と言ったのであれば、そこには一言一句、確実に意味があります。
つまり、彼は、わざわざ【有効性】【興味深さ】【長いスパン】という3つの要素を提示しているわけです。
この3つの要素は、彼の長い小説家のキャリアの中で、おそらく厳密に考えに考え抜かれて、自分の小説観として、後世に残っても良いだろうと判断されたほどに選び出されているのです。
私たちは、ここに踏み込んで考えていく必要があります。
では、ここから、小説が読者に自分で考えさせるという目的を果たすために、村上春樹が選び抜いたテキストが持つ3つの性質【有効性】【興味深さ】【長いスパン】について、考えていきましょう。
ここでは、これらの要素を、とっつきやすい順に並べ替えます。
まずは【長いスパン】から始めたいと思います。
「読者が自分で考える」ための「長いスパンのテキスト」とは?
これは比較的、文字通り捉えていいでしょう。
そんな僕が10代になって、手に取ったのがロシア文学の作品です。トルストイやドストエフスキーといった人たちです。小説は長ければ長いほどいい、そんな気がしました。
つまり、文字量は少ないより多い方がいい。
100ページより、1000ページが好ましい。
短編小説より、長編小説が好ましい。
彼は「長編小説が僕にとっての主戦場」とまで言っています。
僕の場合は、短編小説でまず何かを試し、中編小説でそれをさらに進展させ、最後に万全のかたちで長編小説に持ち込みます。はっきり言ってしまえば、長編小説が僕にとっての主戦場なのです。
なぜでしょうか?
はい、しっかりと読み解きを進めている私たちには明確ですね。
それは、長編小説こそが「人に自分で考えさせる」ための最大の力を発揮できるフォーマットだと、村上春樹が考えているからでしょう。
彼にとっては、短編小説と中編小説は、そのための準備なのです。つまり、裏を返せば、短いテキストでは、なかなか人を深く考えさせるのが難しい。そのように村上春樹が考えている、ということですね。
人を考えさせることが全くできない短いテキストの例として、村上春樹はSNSの情報を指摘しています。SNSで拡散される情報は「断片的で、繋がりを持っていない」と。
ー 心の闇の世界を探る仕事では、1995年に起きたオウム真理教信者による地下鉄サリン事件の被害者らへのインタビュー集「アンダーグラウンド」がありますね。
村上:それを書いている時、小説家として、麻原彰晃が信者に伝えた物語みたいなものに、打ち勝つ物語を作り出さなくてはいけないと思いました。オウムの時代には宗教に力がありました。でも現代では宗教よりはSNSの方が、もっと直接的で強力な拡散力を持っているように感じます。SNSそのものが悪だというわけではないけれど、そういう力が現実に機能していることを忘れてはならないでしょう。
― 「騎士団長殺し」はそのような力と対抗する物語でもありますか。
村上:SNSに表れる暴力性はあくまで断片的で、繫がりを持っていません。僕は個人的には物語というものは、長ければ長いほどいいんじゃないかと考えています。それは少なくとも断片ではないからです。そこには一貫した価値の軸がなくてはならない。そしてそれは時間の試練を乗り越えなくてはならない。
Yahooニュースの見出しは最大15文字。
Twitterは、140文字の制限がありました。
noteでも、500〜1500文字程度の記事がほとんど。
私たちはSNSを眺めて、自分で考えたつもりになっている。
でも、村上春樹に言わせれば、「SNS上の情報は、断片的なゴミクズであり、XやらTiktokやらで刺激物として進化したゴミを無理やり頭の中に放り込まれて、それに神経症的に反応しているだけで、お前らはホンマのところ1mmも何も考えていやしないんだ。いい加減に目を覚ませ。長編小説を読んで、自分の頭で考えろやボケ!」と言っておられます。
(ここは村上春樹の意見を、私が過剰に翻訳してお届けしています。笑)
冗談はさておき、ある程度のボリュームがあり、そこに一貫した価値の軸があり、時間の試練を乗り越えているテキストが良いと。
ただ単純な「長さ」だけでなく「一貫した価値の軸」も重要なようですね。それが何を意味するかは、ここでは置いておくとして。
例えば、『カラマーゾフの兄弟』とか『源氏物語』とかですかね。『失われたときを求めて』(400字詰め原稿用紙10,000枚)とか最高だ、ということになります。そうしたテキストが「人に自分で考えさせることができる」のだ、ということですね。ふむ。
いろいろと細かい部分は考える余地が残っていますが、とにかく小説が提供するべき「長いスパンのテキスト」については、村上春樹の意図するところを、少しだけ正確に理解できたような気がしますね。
「人を自分で考えさせるための長いスパンのテキスト」の対極にあるのが、「SNSで拡散される断片的なつぶやき(ゴミ)」ということです。みなさん、反省しましょう。
ということで、次にいきます。
「読者が自分で考える」ための「興味深いテキスト」とは?
さて「興味深い」とは、どういうことでしょうか?
これもあんまり難しく考えなくていいかもですね。おそらく「読んでいて面白いテキスト」という理解でいい気がします(適当)
うん、方向性は間違っていないでしょう。でも、私たちは、そんな単純な一言で、分かった気になり思考停止することは避けましょう。それは村上春樹が望んでいないことでもあります。
ということで、もう一歩、踏み込みます。
考えてみれば「面白い小説」を書くというのは、もはや言及するまでもない書き手が目指すべき当たり前のことですよね。なので、村上春樹もわざわざ「読んで面白い小説を書きたいんですわ」とは、なかなか言いません。
でも、そこらへんのニュアンスを、ちょっと別の言い方で表現されている発言があります。これをヒントにしてみましょう。
わかりやすいといえばとてもわかりやすい、むずかしいといえばとてもむずかしい、というのが僕の本の特徴ではないかと思います。なんだか禅問答みたいですね。山があると思えば山はあるみたいな。読みやすいけどむずかしい、というのが僕の考えている理想の小説のひとつの姿なんですが。
些細で、取るに足りぬことを、入り組んだ、難解なスタイルで書く作家はいくらでもいます。深刻で複雑に絡んだ困難な問題を、流れがあって、読むと気持ちがよくなる平易なスタイルで書く、僕はそれを心がけています。
ふむふむ。
こういう捉え方をしたらどうでしょう。
【興味深いテキスト】=【深刻で複雑な問題】+【読みやすい】
つまり、人を考えさせるために、小説が手段として提供すべき「興味深いテキスト」とは、深刻で複雑な問題を扱っているにも関わらず、気持ちよく読める平易なテキストのこと、である。
これは村上春樹作品を読んだことがある人なら、納得のいくところですよね。
なにがなんだかよう分からんが、とにかく切実に重要な何かがここには存在している、と感じるわけです。
で、普通はなにがなんだかよう分からん状態では、読者は読み進めてくれないものですが、村上春樹の場合は「流れがあって、読むと気持ちが良くなる平易なスタイル」で書いているので、最後まで読めてしまうと。
【興味深いテキスト】だからこそ【長いスパンのテキスト】でも、最後まで読める。
つまり、長い時間どっぷりと、読者を自分で考えさせ続けることができるわけですね。
さらに、この「興味深いテキスト」が可能にすることとして、小説の敷居を下げるという狙いについても語られています。
村上:
僕は本当にできるだけ、小説というものの敷居を下げて書きたい。それでいて質は落としたくない。僕が最初からやりたかったことはそれなんですよね。
とにかく、エスタブリッシュメントみたいな小説は書きたくないし、かといって、アヴァンギャルド的は反小説的な小説というのも書きたくない。そういう形で崩しはやりたくない、と。メインストリームに近いところで、敷居を低くしながら、いろんなものを作り変えていきたい、と。そういうのが僕の最初からのつもりですよね。
(省略)
いい小説が売れない、それは読者の質が落ちたからだっていうけれど、人間の知性の質っていうのはそんなに簡単に落ちないですよ。ただ時代時代によって方向が分散するだけなんです。この時代の人はみんなばかだったけれど、この時代の人はみんな賢かったとか、そんなことはあるわけがないんだもん。知性の質の総量というのは同じなんですよ。
それがいろんなところに振り分けられるんだけど、今は小説のほうにたまたま来ないというだけの話で、じゃあ水路を造って、来させればいいんだよね。と、僕は思うけれど、こんなこと言うと、また何だかんだ言われるかもしれないなあ(笑)。
つまり、村上春樹としては、なるべく人に自分で考えてもらうために、長編小説を選んで欲しい。
だけど、TikTokやらYouTubeやらNintendo SwitchやらNetflixやらXやらPornoHubやらなんやら、人々の可処分時間を争う様々な新しいメディアとコンテンツが台頭してきている。
すると、人々は仕事から帰ってくると、美女がコスプレしてピアノを弾いている姿を見たり、ハブにちょっかい出して噛まれた柴犬の様子を見たり、街頭で学歴を尋ねまくっている人々の動画を見たりとか、するわけですね。
ノーブラでゴルフしているアメリカ人の動画とか、水原一平が踊り狂ってる動画とかです。断片的なゴミ情報なのですが、私たちはスワイプする指を止めることができません(泣)
これが現代の特徴なわけですね。特にスマホが普及した2010年以降から現在までの私たちが生きている世界です。おそらく村上春樹がインタビューの中で使った「高密度情報社会」のニュアンスよりも、もっともっと大量の情報が溢れている社会になっているでしょう。
これはもう相当、敷居を下げないと長編小説読んでくれないわけです。
だからこそ、YouTubeでは取り上げることが出来ないような切実で重要な問題を、スラスラと流れに乗って読んでいると気分が良くなるような文章で、書いていく、と。
長編小説を読んでもらうためには、このような興味深さ(切実な問題+読む気持ちよさ)を兼ね備えていないと、生き残っていくことができないんですね。
めちゃくちゃ余談+私の個人的な見解ですが、このような競合コンテンツの台頭を意識して、あえて純文学ではなく、娯楽小説のフリをして生き残ろうという戦略を取る作家も出てきていると思います。表面的には、よく売れる娯楽小説の姿をしている、でも中身は純文学さながらのディープな異世界に連れて行く、という戦略ですね。
はい、ということで、特に純文学の方向性で攻めている皆さんは、自分が書いている文章が「興味深くないテキストではないこと」を確認しましょう。
ふむ。「興味深くないテキスト」とは、何でしょうか?
村上春樹の先程の発言では、それは「些細で、取るに足らぬこと」を「入り組んだ、難解なスタイル」で書いたテキストのことですね。
そんなものは誰も読んでくれない!
すぐTikTok開いて思考停止しちゃうよ!ということです。
「読者が自分で考える」ための「有効なテキスト」とは?
さて、いよいよ最後の難関ですが・・・・長すぎるので、この記事では考えるのを辞めます(笑)
というのも、「有効性」について考えるには、相当いろんなプロセスを踏む必要があるからです。
まず「有効」とは何なのか?これは「効果が有る」ということですね。では、村上春樹が狙っている効果とは何でしょうか。それは話の流れから言えば「読者が自分で考えること」です。それが小説の目的なのだから。
じゃあ、この「小説が提供するテキストを読んで、読者が自分で考える」とは、具体的にはどういうことなのでしょう?
この記事では、今までなんとなくやり過ごしてきましたが、本当はこれを噛み砕く必要があります。そうしない限り「テキストの有効性」について考えにくいのです。
ということで、ヒントだけ置いておきます。さきほど引用した発言の続きです。
― 「騎士団長殺し」はそのような力と対抗する物語でもありますか。
村上:SNSに表れる暴力性はあくまで断片的で、繫がりを持っていません。僕は個人的には物語というものは、長ければ長いほどいいんじゃないかと考えています。それは少なくとも断片ではないからです。そこには一貫した価値の軸がなくてはならない。そしてそれは時間の試練を乗り越えなくてはならない。
― 物語の力ですね。
村上:言葉を通して、何かを実際あった出来事のように人に体験させるのは、小説にしかできないことです。そういう物語を経験するかしないかで、人の考え方や、世界の見え方は違ってくるはずです。生身の人間を通過させる物語を書きたい。小説が持つ、その力に本当に期待しています。
最後の段落の太字部分です。
よくよく考えると、長いスパン(かつ、一貫した価値の軸がある)である上に、興味深い(切実な問題を扱っていて、しかも読みやすい)テキストって、小説以外にもあるんです。
例えば、哲学書です。長いスパンで興味深いテキストを提供するだけだったら、哲学書でもOKですよね?大概の哲学書って、かなりのボリュームがあって、非常に切実な問題を扱っています。読みやすさについては、著者の文章と読者の相性もあるし、翻訳をした人の腕前などにもよりますが、まぁ読みやすい哲学書もあります。
というか本なら何でも当てはまる可能性があるのです。歴史書だって、長くて興味深いものはあるし、自己啓発本でもありえます。「我々はどうすれば幸福な人生を歩めるのだろうか?」切実な問題です。
そこで、もう一度、この村上春樹の発言を見てみましょう。
「言葉を通して、何かを実際あった出来事のように人に体験させるのは、小説にしかできないこと」
ふむふむ、ここで小説とそれ以外の本に分けて語っています。
哲学など小説以外の本は、基本的にロジックの世界です。主張があり、根拠があり、それを繋ぐ論理があります。なので体験ではないんですね。一般的な意味での勉強に近いです。
しかし、小説は、体験の世界です。長く興味深いテキストを読むことで、私たちは「何かを実際あった出来事のように体験する」のです。泣いたり、怒ったり、恐怖を感じたり、勇気が湧いてきたり。
つまり、同じ「考える」という動詞を使って表現がされていますが、実際には「哲学書などを通じて、論理的に考える方法」と「小説を通じて、物語的に考える方法」の間には、とてつもなく大きな違いがあります。
そして、この違いこそが、小説ならではのユニークな強みということです。
それは、彼の言葉で言えば「人の考え方や世界の見え方を違うものにする」ほどのパワーが持つのが、小説的あるいは物語的な方法で「自分で考える」ということなのです。
これが村上春樹の考える小説の目的なわけですね。
「物語的な方法で、読者が自分で考える」こと。
これは小説以外では達成不可能なのです。だからこそ、この点に小説の存在意義があることになります。つまりは、小説家の存在意義でもあるわけです。
そして村上春樹は、この小説だけが持つパワーを信じているから、そこに自分の人生を掛けた仕事の意義を見出すことができているんです。
ポーランドの詩人ズビグニェフ・ヘルベルトは言っています。「源泉にたどり着くには流れに逆らって泳がなければならない。流れに乗って下っていくのはゴミだけだ」と。なかなか勇気づけられる言葉ですね。
終わりに:本当はここから先が本番
はい、ということで、今回はこれくらいにしたいと思います。
1万字を超えました(笑)
こんなに長いnoteを書いても、誰も読んでくれないかもしれないので、この先は文量を抑えていきます。
こんなに書いた後ですが本当に重要なポイントは、ここから先にあります。まだ私たちは村上春樹の考える「有効なテキストとは何か?」について、よく分かっていません。
とりあえずは「小説的・物語的に考える」=「非哲学的・非論理的に考える」ということは分かった。
でも、これは「〜ではない」という消極的な定義でしかありません。
では「非論理的に物事を考える」って、どういうこと?
転じて「言葉を通じて物語を体験をする」って、どういうこと?
一体全体「それが私たちの世界の見方を変える」って、どういうこと?
と考えていく必要があります。
そうすることで、はじめて「有効なテキストとは?」という残された難問について、考えることができるようになるでしょう。
長い道のりですね。
とりあえず「しらふの村上春樹を読み解く」シリーズは、こんな感じでポップに書きつつも、内容はハードコアなものを提供していきたいと思います。
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