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#8 「トロ、とろとろ、吐露」

大トロよりも中トロ、中トロよりも赤身がなんて、加齢を経て、自身もご多聞に漏れず感じる様になり、脂身と言う旨味成分なのか、はたまた言い換えれば、特性・個性・主張には心が靡かなくなり、

若い頃は見向きもしなかった、淡白の良さというか、潔い主張に頷く機会が増えた様に思う。

ただ、あまり触れてこなかっただけに、今、対峙する機会が増えて、真新しさを感じてるだけかもしれないが...。

良く、歳を重ねると味覚が変わるなんて事を良く耳にするが、勿論科学的根拠を以って、味覚センサーが変わるであるとか、人生経験を経て、受け入れる受け入れないの基準が変わるなんていう、初期衝動的感覚から意識レベルが成熟したなんて事も理由として挙げられるかも知れないが、

個人的には、前述の脂を避け、淡白を好む様になるというのが、一番の理由なのでは?と、勝手に思っている。

ここまでつらつらと、加齢に伴う、味覚の変化の私感見たいな事を書き殴ってみたが、
今回はそんな事を書く気は全くないのです。

さてさて本題。

気付けば一年を超え、対策についても善し悪し賛否両論、ハッキリしないまま長期化の様相を見せている、このコロナ禍の状況。平時の状況を考えると、辟易するとしか形容出来ないが、

占い的に言うと、土の時代から風の時代への強制変換期、時代変化的に言えば、現実から仮想現実世界への変換期などと叫ばれ、

はたまた、なんのこっちゃ?

と言う所ではあるが、このコロナ禍と呼ばれる状況が落ち着いた頃には、自分たちが知ってる日常世界なんてものは存在せず、

知らぬ間に塗り替えられた新しい普通とか日常を平時と呼ぶ様になるのかも知れないなんて思うと、ゾっとする。

自分だけは変わらない!なんて虚勢を張ったとて、
時代遅れヨロシク、ないし、社会不適合のレッテルを貼る準備が着々と進んでるのかも知れない。

ただ、自身が気付いていないだけだったり、無駄な抵抗を続けているだけで、間違いなく自分にも小さな変化をもたらしていて、その変化すら当たり前になって、受け入れて、染み付いて。

変わらない物なんて何も無いんだななんて、哲学染みた事を思ってみたり、みなかったり。

そんな中、幸せな事と思うか、不幸せな事と思うか、ここ数ヶ月の間、毎月残業が100時間を超え、最大時でみると、150時間をゆうに超えている。

所謂、過労死ラインオーバーというヤツです。

良くニュースで目にするが、コロナ対策室で勤めてらっしゃる方は月の残業が300時間を超えてる?なんて話も。

はたまた、医療従事者の方もしかり、事業主の方については、この残業なんて概念も存在しないのかも知れない。

労働基準法も過労死ラインも国が定めたラインなだけであって、守られ無ければ一定の罰を受ける事はあれど、実態なんてものは有って無い様な物なのだろうと認識している。

前談に戻るが、この過労死ラインとやらを、ひょいっ!と跨ぎ続けているも、今、こうして文を綴れる程、生命の危機と言うものを感じている訳でもなく。

そして何より、苦労自慢をしたい訳でもなく、愚痴の類を吐露したい訳でもない。

コロナ禍のせいで、経済の停滞に歯止めがかからず、働きたくとも働けない、前述した様な人達と比べたらまだマシ!なーんて事も頭に過ぎる。

さらに言えば、ありがたい事に?(当たり前か!)残業分は、しっかり対価として支払われているため、毎月の給料日は少なからず楽しむ要素はあるので、我がのモチベーションは保たれていると勝手に思っている。

が、しかし、この、人と比べたら〜とか、稼げるから〜精神こそが、代々、脈々と良しも悪しも受け継がれてきたザ・日本人的精神構造で、

働かざる者食うべからず!が、未だに、こんにちわ!感覚で使われてるのも現実で、
働かないものは悪!の論調は消える事は無いのでしょう、きっと。

ただ、良く見聞きし、自身も人生の中で何度も口にし、どっか根底には有り続ける、働かなくて良いなら働きたく無いし、もっと言えば、会社なんかに行きたくない!と言う素直な気持ちは、誰の心にも当然有り、

年老いても飢える事なく、普通と思われる生活水準にて生きていられる財力を持ち合わせていたら、きっと働かないと言う選択をするのでは?と思う。

ただ、良くも悪くも、欲と言うものや理想と言うものも当然有って、大きな家に住みたいであるとか、セレブリティを感じる様な日常を得たいとか。

あとは、前述の様な事は到底起きず、宝くじに想いを馳せ、大枚を切るも、ただの紙切れとなり落ちるなんて事もあり、必要に応じた対価を伴う、仕事と言うものに従事する訳であるし、

その仕事を通じて、お金には変えられない知識・経験、はたまた出会いなどを得るのだと思えば、対価以上のものを獲得しているのでは?なんて事も思ったりもする。

が、しかしの、が、しかし、

対価を伴わない仕事?と呼ぶ様な日常もあったり、
仕事へのモチベーションとなる、プライベートと言うものも人によって持ち合わせていたりするのも、これまた事実で、

で、あれば、時間はギュッと濃縮して、対価は同等に、空いた時間はどうぞ、別の仕事をするなり、家族友人恋人と過ごすなり、ボケっとするなりどうぞ!てな、未来を切実に願いたい訳で。

何周かしたのちに、本来の本筋に話を戻すと、
今は我慢も出来るし、有難い事に対価にも満足、こんな状況の中仕事が有り余っている事に感謝!とは思うも、

素直に不健康!寝る間も惜しんで!こちらのプライベートはどこへ!?ストレスたっぷり!何故、会社は見て見ぬフリ??○○さんは毎日定時だぜ?なーんて、率直に思う事もまた事実。

幸か不幸か、独り身でいる自身に取っては、このボーダーラインをある種自己中心的に判断し、進むも止まるも引くも選択可能だし、

何より、人生を投じてまで向き合う仕事か?と言われれば、疑問符はつくが、この経験すら、まだまだ続く人生に取って、ある種の経験値・蓄えとなる訳で、無駄だったな、損したなと思わない、瞬間・経験にはしたいなと切に思う。

ただね、やっぱり辛い事も多いから(体力的にとか?精神的にとか?)、
単純計算、二人前の時間と金を使ってるんだから、どうぞ、もう一人の採用を!我が勤め先!(笑)

余裕が生まれたらもっと良いパフォーマンスするかもよ?
もう一人増えたら、その人がすごく会社に利益をもたらすかもよ!?

なんて事を思って、早数ヶ月、このnoteに駄文を投稿する隙間も目減りし、残念無念、
コロナ禍のバカヤロー!マインドは、収束後も、教訓として、変わらず持ち続けたいと思う。

久々の雑感、私感、ご拝読ありがとうございました。

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