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冷えたらブラジル

足の指のさきが冷たい、そこはつま先と呼ばれる場所、身体の先端部分のひとつ。しびれたみたいになっているのは先端なのに、胃のあたりがずーんと重くなる。冷たい血は身体中をまわりまわっているからだろう。ああ冷たい足の指のさき。つま先と呼ばれる身体の先端部分のひとつが今、わたしの核になる。わたしがそこに集まる。わたしはつま先に生きているといった気概を持ってても、そこは冷たく病んでいる。親指だけひくひくと動かしてみようか。少しだけ熱を帯びできたかも。右だけじゃなく左もひくひく。よく見ると親指だけ動かしているつもりなのに他の三本もいっしょに動いてしまう。親指がドスを効かせた。
(動くな三本、いっしょに動くつもりはないぞ。)
(動いてるつもりは毛頭ないんだ。)
(でも動いちゃってるじゃないか。)
(そのつもりはないのに動いちゃうんだよ、どうしようもないね)
(小指は動かないでいるのに!)
(小指は動けないからだろう、動こうとしても)
小指は無口だった。
(そんな言い方はやめろ!小指のことをさげすんだりして。)
(そっちこそ上から目線だぞ、少しばかりデカいからって〈怒〉)
(何だとぉ〈怒〉)

つま先に生きていたわたしは分裂し始める。そのとき、右の五本の手の指が右足の分裂した五本の指を、左の五本の手の指が左足の分裂した五本の指を、ぎゅっと包み込むようににぎった。親指以外の四本の手指が右左それぞれのリンパのツボを捉えている。いじめたくなって強く強く食い込ませたら、おおおお(大)痛い。きっと老廃物が溜まっているからだと直感した。

わたしは老廃物を背負う。『夜間飛行』なんて洒落た名前の珈琲豆焙煎の店先に「ご自由にお持ちください」と添えられた麻袋を一枚いただいてきたのは一週間ほど前のことだった。もらってきたのはいいが使い道に困っていたのだった。緑色の葉と赤い実と白い鳥が描かれた丈夫そうな麻袋はわたしの老廃物を入れるのにちょうどいい大きさだった。背中に自分のものの重さを感じながら、フランス生まれブラジル育ちのラウラさんを思い、ちょっとだけ後ろめたくなる。ラウラさんは『夜間飛行』の女店主なのだ。大ぶりな熱帯植物とゴージャスな白い鳥が描かれたエキゾチックな雰囲気の麻袋に、老廃物を入れるなんて!そもそも背負った麻袋を、わたしはどうしようとしたのだ?と我に返ったときにはすでに『夜間飛行』の店の前にいた。

ラウラさんは日に焼けた太い腕の先でにぎった拳を、たぶんウエストあたりーー実際彼女の上半身は酒樽のように、あるいはそれ以上に丸みを帯びていたからその部分がウエストであるかどうかは定かではなかったーーに当てていた。「ああ持ってきたね、来ると思ってたよ」すっかり悟っていたような彼女の言い草はわたしの腑に落ちなくて、けれど背負った麻袋の重さに耐えきれず足元に落とした。ドスンガラっと音がした。「いいよ、やってやろうじゃないか」訳が分からないまま、わたしはラウラさんの店で待たなければならなくなった。

そのあいだ、わたしは珈琲豆を売り、客が差し出すサービス券にスタンプを押した。二時間ほど働いたら、さっきとは違う小ぶりな麻袋を手にしたラウラさんがバックヤードの焙煎室から出てきた。彼女の身体にまとわりついた饅頭を蒸したような匂いがあたりに広がった。わたしの核がギュルっと音を立て、冷たい先端がちぢこまる。「これはブラジルだよ、ブラジルコーヒーじゃないよ、ブ、ラ、ジ、ル!」たしかに、その麻袋にはブラジルの国旗が描かれている。「調子が悪いときは、これに限るんだ。冷えてるんだろ」ラウラさんは顔を見ればその人の悪いところが手に取るようにわかるのだと話した。「あの、ブラジルって?」「あんたの、あれをさ。焙じたんだ。とっとと持って帰って飲んでみな」「飲むって?」「煮出すんだよ、お茶みたいに」つまり、わたしの老廃……え?「間違いはない、冷えは絶対によくなるさ」

湯気は、やはり蒸した饅頭の匂いがする。ブラジルか。不味くはなさそう。でも飲むのは……「飲まないってぇのかい!」ラウラさんのしかめっ面が浮かんだ。温められたマグカップをじっと見つめる。湯気のあいだに小さな虫のようなものが飛んでいる。いや、虫じゃない。それはとても貧弱な造りをした飛行機だった。ふぅーっと息を吹きかけると、一瞬湯気がなくなり飛行機も消えた。けれどまたしばらくして湯気が立ちのぼり、ふらふらと揺れながら飛行機があらわれた。わたしは目をつぶる。真っ暗な、ただ黒い空にイナビカリが走る。雨はどんどん強くなる。それでも操縦かんをにぎる男。操縦士の顔を想像しながらマグカップに口をつけた。飲み込んだそれは蒸し饅……いや、ブラジルの味がした。つま先が温かくなってくる。わたしの五本の指がそろってひくひくした。つま先はもう分裂していなかった。わたしはわたしの身体の先端部分をうまくコントロールできている。たぶん操縦かんをにぎる男と同じように。

this is the end of the story, thank you for reading.



万条由衣


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