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愛と理解と信頼と

昨日の夜、これから合同会社を立ち上げるメンバーの一人とオンラインで会話した。

私は「自分を見てくれ」という欲がすごく強い。彼女にもそれを見抜かれていて、クライアントさんに貢献したいのか、それともクライアントさんたちを通して自分の力を誇示したいのか、その心持ちが微妙に違うだけで事業には大きく影響するだろう、だからまず自分と向き合ってみてほしい、と言われた。

あなたの本当にやりたいこと、あなたが本当に欲しいと願っているもの、それはなんなのか、と問われているような気がした。


ちょうどその答えを前日の夜の飲み会で見つけていた。
なんてタイミングが良いんだろう。それで、土曜日の夜に飲みながら感じたことを彼女に話した。話しながらなんだか泣けてきてしまって、それは多分欲しくて欲しくてたまらないのに自分がずっと拒否してきたものだったからだと思う。


子供の頃、愛は「注目」の形をしていた。親の注意をひかなければ子供は死んでしまう。だからさまざまな形で子供は親の注目=愛を集めようとする、それが問題行動だったとしても、あるいは良い子の仮面をつけて演じることだったとしても。

今も私は注目という形をした愛を欲している。
でも、注目を集めるのは単なるきっかけで、私は本当は「私という人間をわかってもらいたい」のだった。私の中で「わかってもらうこと」と「愛」は結びついていて、私という人間が何であるのか、何を感じて何を考えて生きているのか、わかってほしい=愛されたい。


でもずっと自分の中で綱引きしていた。
私を見てくれと言いたくなる自分と、私の話ばかりしちゃいけないよと言う自分。


なんでかって、私がもう一つ欲しいと思っているもの、これこそ喉から手が出るほど欲しいと思っている感覚は「他人とわかりあう感覚」「わかちあう感覚」だったから。

私は他人のことも理解したい。共感したい。わかる部分とわからない部分を発見して、わからない部分は「わからないな」とわかりたい。私と何が似ていて何が違うのか、それを知りたい。
何を考えてる?何を感じてる?何が好き嫌い?何が大切?空の色はどう見えてる?そういうの全部知りたい。

わかられたくない、という心理もわかる、だって私も他人にわかられてたまるかと思って生きてきたから。理解されたいのに、理解されたら自分という人間の底が見えるようで嫌だった。
それでもわかりたい。わかられたくない気持ち丸ごとを包むようにわかりたい。

これはもう私の欲だ。

私にとって「理解」は愛で、私は他人の感覚や世界観を理解することで他人を愛したいという欲(願い)を持っているのだと思う。

でも、私のことを誇示しなくちゃ、私のことをより多く知ってもらわなくちゃ、より大勢の人に見てもらわなくちゃ、そうしないと私のことは愛してもらえない、と思い込んでいた。

愛したいけど、愛されもしたい。話を聞いてあげたいけど、まず私のことを知ってもらう必要がある。そのアンバランスな感覚の底に眠っていたのは「私は理解してもらえない」という孤独感や孤立感だった。


土曜日の夜、私の双子かと思うくらい感覚のそっくりな人とずーーっと喋っていたとき、分かち合っている感覚が常にあった。「私が欲しいのはこれだ」と思って涙が出た。

あのとき、根底には「信頼」があった。この子なら分かってくれる、というかもう分かってくれている、と初めて無条件に信頼できていた。

愛情は信頼のパイプから感じていて、分かち合う喜びは会話のパイプから感じていた。

この感覚を常にもって生きられたら最高だ。
信頼のパイプを太くしたい。
自分のこと、世界のこと、他人のこと、もっと信頼していい。

試しに「私はもう分かってもらえているよ」という言葉を自分にかけてあげたら、涙が出るほど嬉しかった。安心する。もう肩に力を入れて注目を集めようと努力する必要もない。自然でいればいい、だってもう分かってもらえているんだから。

これでやっと先に進める気がする。「分かち合う」という望みのための、相手をわかるために言葉を譲るという段階に、やっと進める。

それが嬉しくてたまらない。

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