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月と六文銭・第十六章(1)

 武田は中国の組織に狙われていると知ってから、すべての中国人を警戒するようになっていた。さすがに職場の同僚の中国人は大丈夫だとは思っていたが、彼の知り合いというのには気を付けていた。
 守護天使のように見守ってくれている田口たぐち静香しずかに言われるまでもなく、ITが発達したお陰で、今は連絡が取りやすいし、情報を共有しやすい状況なのだ。誰と誰がどこでどう繋がっているのか分からない以上、すべての要素を勘案して行動するしかないのだ。

~充満激情~


 武田は台湾人留学生・劉少藩リュウショウハンを待ちながら、ひと月前の出会いと1週間前の会食を思い出していた。どこもおかしいところはないはずだ。
 あの日、羽田空港に行ったのは偶然で、東京タワーもスカイツリーも行き先の候補だったし、そのまま横浜まで第三京浜を飛ばしても良かったはずだ。
 中国人工作員グループに狙われている今、興味深い女性ではあるが、本当に台湾人なのか確証がないまま会っているのは危険だということも承知している。
 たまたま空港にいた田口が台湾のパスポートと本人が話していた北海道行きの便に乗ったことも確認していたので、4割ほど疑いが晴れたと感じていた。


***ひと月前の回想***
 自分の車、通称「ネロ号」を久しぶりに引っ張り出して、気ままに走らせていた。何となく空いている方に鼻先を向けていたら、羽田空港に着いたので、ターミナルビルの最上階のファミリーレストランに入って、メロンソーダフロートを頼んで発着する航空機を眺めていた。

 羽田空港は国内利用者数が年間に約3千万人、2位の福岡空港の約3倍。かつては世界1位だった利用者数を誇り、1分数十秒に1回航空機が離発着する世界でも最高水準の稼動率を誇った空港。設備の拡大が追い付かなかった時期もあったが、滑走路、ターミナルビル、アクセス路線の整備が進み、近隣アジア国家との路線も整備された。

 アイスクリームをメロンソーダに押し込んでは浮いてくるのを繰り返して遊んでいたら、隣のテーブルの女性が本を落とした。その本を拾い上げて、表紙を見たら漢字で『三体』と書かれていた。

 『三体』は中国のSF作家リウ慈欣ツーシンによる長編SF小説で、2015年に第73回ヒューゴー賞の長編小説部門を受賞した作品で、アジア人作家の作品としては初めての受賞作である。日本ではまだペーパーバックや文庫本が出ていないものだった。


 本を落とした女性はハッとして、切れ長の目でこちらを見つめた。拾って表紙を眺めている自分と目が合った。
 美人だが、何かが違うというの第一印象だった。日本人じゃないと感じた。そうだ、化粧が違う、日本人とは。
 韓国人とも違う。最近の韓国人は髪が黒くない。茶髪やブロンドなど、韓国人ならばもっと明るい色が今の流行りだ。
 そうなると中国人だ。切れ長の目と意外とそっけない爪。ネイルアートはまだ一部の人にしか普及していなかった。
 想像していたのと違い、普通の高さの声だった。極端に高いわけでも低いわけでもなかった。

「ありがとうございます。すこし眠ってしまいました。乗る飛行機がまだです」

 彼女はそう言い、本を受け取った。自分が表紙を眺めていたので、本の説明をしてくれた。
 女性は武田が本の表紙を興味深く見ているのに気が付いたようだった。

「あ、これはサンタイ、有名な中国のSFです。読んだこと、ありますか?」
「いいえ」

 武田はつられて答えてしまった。

「日本語訳が出ています。英語訳は賞を取って、世界的に有名になりました」
「えぇ、名前だけは知っています」

 何となく会話が始まってしまったことが不思議だった。仕事関係であれば割とスッとフレンドリーに話せる武田でも、知らない女性と話せていることに自分自身びっくりしていた。


「私、リュウショウハン、台湾からの留学生。日本に来て3年目です」

 そう彼女は自己紹介をした。

「タケダテツヤです。東京でサラリーマンをしています」

 なんとも変な自己紹介をしたのを覚えていた。そして、久しぶりに自分の名前を聞いてクスッと笑われたり、変な顔をしない人に会ったと感じたのだ。
 彼女は確認するように武田の名前を反芻し、優しそうな何とも柔らかい微笑みを浮かべた。
 武田も礼儀だと思ったのか、リュウの名前を確認し、日本のどこに住んでいるのか聞いてみた。

「今、千葉です。今日、北海道の友達を訪ねます。大学で知り合った人です」

 北海道にいる友人を訪ねて羽田から飛ぶということだった。
 その瞬間、切れ長の目に見つめられて、ゾクッとした。二十代前半のこの女性に魂を吸い取られると一瞬感じた。
 台湾の国会中継で女性議員が男性議員に殴り掛かるシーンを思い出して、自分の台湾人のイメージとちょっと違うと感じた。NYの中華街にいる女性とも違う、どちらかというとNYで会ったことのあるファッションモデルたちのイメージに近かった。
 その後の会話で今年が就活の年だということや美術系の勉強をしていてメディア系企業に就職を希望していることなどを聞いた。
 会話は北海道行き便の搭乗アナウンスで打ち切られたが、さっとライン交換をさせられた。

 その直後、目の前に田口静香が立っていた。田口はリュウが身分証として台湾のパスポートを持っていること、北海道行きの便に乗ったことを確認し、最後に武田がリュウに対して2回も無防備な姿を晒していたことまでを指摘して、さっと伊丹便に乗って関西に向かって行った。

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