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読書感想文『今、出来る、精一杯。』(根本宗子)

読書感想文『今、出来る、精一杯』(根本宗子)

 と、いう夢を見た。という一文をくっつけたくなるような各ラストシーン(群像劇のため、それぞれの人物のラストがあり、ラストシーンが複数となる)の怒濤の折りたたみ方で爽快だった。
 著者の根本さんは劇作家であり、いや、劇作家という呼び方は違うのかも知れないが、とにかく劇団を主宰し演劇をつくっている方であり、そのプロフィールを先に読んだために、「これは舞台」としてストーリーを捉えつつ読み終えた。ということで、これは小説よりも戯曲、というか、より「劇」(悲劇や喜劇)寄りであり、わりと突拍子もないことが日常に起こる小説である。わりと突拍子もないことが起こることを身構えずに読んだひとには結構びっくりすることが多かったのではないかと思った。つまり、私は舞台だと思って読んでいたのでそこまで驚いたり距離を感じたりせずに済んだが、ということです。
 舞台では、小説よりももっと「と、いう夢を見た」くらい突拍子もない、または、刺激の強すぎる展開が全般的に「許されて」いる雰囲気があるように感じる。これは、学生時代にできた友人が劇団を主宰しており、その舞台や関連の舞台をかつて観に行っていた経験からそう思うだけなので、狭い観測範囲からの物言いである。が、なんとなく、世間のもつ「演劇」のイメージから、やはり「そういうこと」なんじゃないのか?と感じる。フィクションのなかでもさらに「有り得ない」に近いフィクション。朝方見た夢から感じ取れるものが多々あるように、脈絡がなかったり、その程度がひどく現実味のないものからしか考えることができないことがある。科学技術的に有り得ないものはサイエンス・フィクションとなるが、科学的に有り得るが、人々の行動決定の指針的に有り得ないもの、となると、途端に小説よりも演劇の出番という感じがする。「常識的に考えて」それはしない、それは為されない、起こらない、と思われるし、実際にそれをしたら基本的には法に触れてしまうこと、それに近いこと、というのは、やはり実際には「出来る」。出来るが、やらない。なぜやらないのかはさて置いて、ノンフィクションではやらないことをフィクションの中でやる。フィクションのなかでも「リアリティ」のために為されないことは多々あるが、この小説では一部の「リアリティ」を捨てて、それが行われている。考えてみれば、フィクションなのだから何でも出来るはずなのに、フィクションの中でも人々はだいたいの制約にしたがって動いている。だから私達は「有り得ない」話に、自分が見た夢のなかくらいでしか、なかなか遭遇しない。もちろんそういうフィクションを好んでいる人はもっと遭遇しているだろうが、この国の一般的な、ハードカバーの新刊(しかもデビュー作)を買う読者のなかの比率でいえば、その小説の中身にまずここまでの現実の越境を想定する人は少ないほうだと思う。私は著者が舞台人だと知ってから読んだため驚かずに済んだが、知らずにただ読んだら、「お!?」とそのスピード感や異常な展開に追いつくのに時間がかかったと思う。(ハードカバーの新刊小説を買う人間はえてしてこのように「なるほど、舞台の人の初小説か、しかも若い人か、小劇場系の舞台っぽい小説なのかな」などと思いながらこの小説を読む可能性大ではあるのだが。)
 現実を越境する瞬間、つまり、ふつうなら「しない」ことを人々が「する」こと、フィクションのなかでもさらに「有り得ない」に近いフィクションからしか、考えられないことがある。根本さんはその越境の瞬間に至るまでをひじょうに丁寧に書かれているし、なぜそれぞれの人物がそれらを行ったのか、日常が非日常になる線をいつ、どのように飛び越えているのかをはっきりと書いていて、「戯曲を思わせる小説」でありながら、かなりの説得力がある。つまり、「有り得ない」ことではないな、でも、これは「と、いう夢を見た」のラインの出来事でもあるな、という、納得させられつつ、納得できなくてもいい物語であるという、ものすごく絶妙な感想を抱かせてくる。巧い。ものすごく。
 登場人物はみな、なにかしらの事情(けっこう大きめ)をかかえており、生きることに向いていない自分を自覚しており、それでもなんとか生きようとしており、しかしその「技巧的」生き方が一回は破綻する。物語の佳境はここだ。そして、物語の各ラストで、技巧的ではなく本質的に「生きていく」ことを各自が実行していく。その最初の一歩を踏み出した、というところで物語は終わる。
 人間はみな「なんとか、どうにかして」「世間と折り合いをつけつつ」、このどうしようもない自分を生かしている。しかし、物語の終盤になると、みな世間との折り合いを捨てる。そして自分にとって本当に大切な生き方を実践していく。その後、その生き方で、各人物が物理的に生きながらえることが出来るのかは描かれていない。おそらくそれは「出来ない」ことなのだと思うし、だから物語はここで終わる。社会に適合できないためにもがいている人間達が、自分の本質に沿った生き方をした結果、社会に完全に適合できなくなる。と要約することもできるが、「自分の本質に沿った生き方をし」た部分、それは、かけがえのない、人間の成長だと思う。私達は板の上(舞台)ではなく現実社会を生きているので、社会に適合し続けなくてはならないが、自分の(社会と対立してしまう)本質が何なのか、またそれはどうしたら解決できるのかは、考えておく必要があると思う。それを見失ったままなんとか社会に適応しよう、ともがいたところで、うまくはいかないのではないか、と思う。自分は何が嫌で、何をやりたくなくて、何をやりたくて、何が好きなのか、社会のルールに反するとしても、いくらそれが「有り得ない」としても、それを心の中にくっきりと自覚しつつ、生きていきたい。または、生きていったほうがいいのではないか。わかっていてやらない(やる)のと、わからずにやらない(やる)のとは違う。フィクションのなかでもさらに「有り得ない」とされるたぐいのフィクションではそこを突き抜ける事が出来る。フィクションや脳内の妄想ならそれが為される。そこにはっきりとした現実と非現実の線が引かれているからこそ、私達はなんとかこの世界で生きていくことができる。または、それを判っていても、その線を飛び越えてしまう人もある。根本さんは、その線をはっきりと描いて、私達にわかりやすく見せてくれた。こういうことをしてくれる人がいるのは非常に有り難いことと思う。
 登場人物達は、「いるいる」「あるある」の範疇を超えない、現代を生きる人間達だった。別に特段立派でもないが、犯罪を犯しているわけでもない。その人物達が犯罪を犯す、または犯すに等しい心情的な地点へ行ってまで、自分の本質にしたがって、つまり「よく」生きようとした。そのこと自体はとても良いことなのだ、と思った。みな、それまで(社会に適応するために)自分につき続けていた嘘をやめて、最後には本当のことを口にした。本当のことを口にして、それでも生きていける方法がきっとある、と、読んでいる間は思うことができた。それがこの小説を読む意味だと思う。小説を読んでいる間は、自分の、登場人物の真実そのままに生きたっていい。フィクションの役割をあざやかに果たしている小説だと思った。

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