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作家の頭の中を覗く

「人生に、文学を。」というフレーズを聞いたことがありますか?

芥川賞や直木賞を主宰する日本文学振興会が、「本を読むこと」、「文学に親しむこと」の素晴らしさを世に広めるために始めたプロジェクト。それが、「人生に、文学を。」です。

TOKYO FMでロバートキャンベルさんがパーソナリティを務め、毎回ゲストに作家を招き、文学についてトークする。不定期で開催されているこの番組がプロジェクトの主軸になるようです。ただ、わたしがこの企画の存在を知ったのは、FM番組からではなく、YouTubeに公開されているオープン講座がきっかけでした。

オープン講座は、基本的に大学の講義室を使って行われ、作家が登壇して話をするというもの。わたしが見たものは、講義のテーマと課題図書があらかじめ決められており、参加者たちはそれを読んでから講義に臨むという、まさに大学の授業のようなスタイルでした。
その講義の一回に、わたしが好きで好きでたまらない”上橋菜穂子先生”が登壇していたことから、この企画にたどり着いたというわけです。

作品は作家を超えない

上橋菜穂子先生は、ハイファンタジーといわれる物語を中心に書かれており、代表的なものに「精霊の守り人」「獣の奏者」「鹿の王」などがあります。作家であると同時に、文化人類学者でもあります。

そして、このときの講義のテーマは「物語の魅力の底にあるもの」。
課題図書はJ.R.Rトールキンの「指輪物語」と上橋先生の「鹿の王」でした。

上橋先生は何かひとつ好きな作品を、と言われたときに挙げるのが「指輪物語」なのだそうです。
わたしも中学生のときに公開された映画を見て、「なんだこの映画は!」と衝撃を受け、その興奮冷めやらぬままに小説にも手を伸ばしました。欲を言えば、映画ではなく小説の方から指輪物語を辿りたかった、という気持ちはあります。映画の持つ映像の力は圧倒的すぎて、小説で楽しむ自分の想像力を遥かに超えてしまっていたので。

話が逸れましたが、この指輪物語。上橋先生がこの本を初めて本屋で手にとったとき、ものすごく字が小さいのを見て、「なんておいしい本だ!」と思ったそうです。きっと楽しめる、長く読めるぞ、と。

やっぱり根っこのところで、本好きな人たちは共通するものを持っているんでしょうか。似たような自分の経験を思い出し、一緒だなと嬉しくなってしまいました。

講義の中で、上橋先生は本当にたくさんのことを語ってくださっています。
ハリーポッターとゲド戦記にみる面白さの多様性、指輪物語をめぐる賛否。作家が避けては通れない「ステレオタイプ」と「郷愁」というものについて。どれも興味深くて、すっと心に馴染むものばかりでした。

日々物語を書く中での気付きや感じていることを、ひと言ひと言をしっかり選びながら、たくさん例え話も使って、そこにいる人たちに誤解なく伝わるように丁寧に話してくれている、そんな感じがしました。

特に印象的だった言葉を、ここに残しておきます。

結局は、作品は作家を超えはしないので、わたしが生み出す瞬間にその物語の姿がどういう命になって生まれてくるものであったか、物語はいく方向性を持って生まれてきてしまっていると思うんです。それを生み出すのがわたしであるならば、わたし自身が日々を生きていく中で、最初から偏見やものの考え方を魂の底まで降りたところで、ちゃんと消化して違うものに変えていなければいけないのでしょうね。
そのスープのようなものから生まれてしまった後で、これは、あれは、と変えていこうとすると、怖いことにその作業って見えるんですよ。
見えない人には見えないかもしれない、でも見える人にはたぶん見えてしまうんです。
——物語がそもそも生み出されてきたときに、その物語が生き物として立ち上がって歩いていくはずだった姿の中に、自分自身が何かのために「ごめん、あなたの髪の毛はここをちょっと短くさせて」というようなことをしてしまったときに、作家がやってしまった”ために”の意図として、ふっと浮き上がるんじゃないかと思うんです。
(「人生に、文学を。」オープン講座 第15講より)

この誠実で好奇心に満ち溢れた人から、わたしの大好きなあの物語たちが生まれてきたんだな。そう思って、嬉しくなりました。
きっとこの先、何度も先生の言葉を思い出すんだろうと思います。


子どもの頃の、特別な読書体験

わたしが初めての上橋作品「精霊の守り人」に出会ったのは、小学5年生のとき、地元の図書館でした。その本は表紙から魅力的で、わたしが大好きなヤングアダルトの図書コーナーでずっと気にかかっている存在でした。
(ちなみに表紙の絵を描いたのは二木真希子さん。スタジオジブリでアニメーションの原画を担当されていた方です)

ついに「精霊の守り人」を手にとる時がやってきたのですが、その時の読書体験は、はっきり言って異様でした。それまでも読書が好きで、いろんなものを読んでいたけれど、こんな衝撃を受けたのは初めての経験でした。読んでいる間、果たして息がちゃんとできていたかどうか。

物語の世界にのめり込んで、もうそこから出てこられなくなるような感覚。読み終えてしばらくして、やっと周りの音が聞こえ始めて、ようやく物語と自分の体がある場所がはっきりと境界を持ち始める。とてつもなく大きくて温かいものに包まれているような読後感に浸るあの時間。あれは一体何だったのでしょう。

当時は「精霊の守り人」に続く「闇の守り人」までが出版済みで、勿論わたしは夢中になって二作目も読み終えました。しばらく時間が空いて、「夢の守り人」という三作目が出ることを、新聞の広告か何かで知りました。

今思えば、わたしが夢中になって読んでいた物語だと両親も承知していたので、ねだれば買ってもらえたのかもしれませんが——当時の小学生のわたしにとって、本は当たり前に図書館で借りて読むもので、買ってもらうものではなかったんです。

どうしてもどうしてもその新作が読みたかったわたしは、図書館のお姉さんに、その本を取り寄せてほしいとお願いしに行きました。このときもう既に図書館で購入する予定になっていたのか、それとも小学生の女の子の切なる願いを聞き入れてくれたのかはわかりませんが、無事その本は図書館に置かれることとなりました。

そして、入荷したら連絡してあげる、と約束していた図書館のお姉さんから連絡をもらった週末。はちきれそうな想いを抱えて、元気よく自転車で図書館に出かけました。図書館特有のビニールカバーで装丁された、つるんとした本を渡されたとき、まだ誰も読んでいないその真っ新な新刊を、自分が一番最初に読めるんだと思ったら、嬉しくて嬉しくて仕方がなかったのをよく覚えています。

この時からずっと、わたしの一番好きな作家は”上橋菜穂子”先生です。

小説って読んでも役に立たなくない?

少し話は変わりますが、わたしには四つ下の弟がいます。そして、彼は本当に小説を読まない。実用書は読むし、漫画も読むけど、小説は読んでいるのをほぼほぼ見たことがない。
そんな弟に、あるとき言われたことがあります。

「実用書は読めば役に立つ知識があるけど、小説って読んでも役に立たなくない?」

このときわたしは「そんなことないよ!」とあらゆる理由を述べ立てたはずなのですが、そのどれもが自分で言っていて納得感がなかった。しっくりこなかったんですね。

ただ、「人生に、文学を。」のオープン講座をいくつか見ていて、わたしが言いたかったことを代弁してくれている方がいました。第一講の村山由佳さんの講義は東大で行われたのですが、その講義の一番最後、東大の教授が挨拶がてら、文学について少しお話されている場面がありました。
その東大教授の言葉を聞いて、ああ、わたしが言いたかったのはこれだ、とすとんと腑に落ちる感覚がありました。以下、引用です。

文学を読むということは、体験だ。
本を読むこと自体、人間にとっては体験で、何らかの体験をした人間は多少なりとも変わる。一方、知識というものは忘れてしまえばそれまで。例え小説の筋書きや登場人物の名前を忘れても、体験は何らかの痕跡を残す。だから、いい本を読む前と後では、あなたは少し変わっているはず。世界が少し違って見えているはず。
(「人生に、文学を。」オープン講座 第1講より)


読む前と読んだ後では、わたしは確かに少し違う人間になっています。
それはそうです。あんなまだ見ぬ新しい世界へ連れていってもらって、これまでと同じ自分のままでなんていられない。登場人物たちと一緒に歩き、わたしは旅をしているんです。

ああ、文学って愛おしい。心からそう思います。
まだまだ新しい世界を見て、たくさん感動したい。


やっぱり、わたしの人生には、文学が必要だ。



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