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『ゾンビと幽霊とNPC』

アメリカの反リベラル運動に「ゲーム」が利用されていることの意味
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/64848?fbclid=IwAR3UuVIX7zAxMUb50IKJKxXTVtqa6LvQl2O8WtMHfaIW075ZBfPh6pj6vYY

ゾンビと幽霊の時代に加えて、NPC(non-player characters:ノンプレイヤーキャラクター・人間が操作しないキャラクターのこと)というのはどこかしらリアリティがある。例えば、自分の真後ろの世界は真っ暗で振り向くと横スクロールのアクションゲームのように現出し、自分が進む方向がその度に現れては消えるというような。
この記事の中でNPCと輪廻転生をしているならこんなに人口が増えたら、魂のない人間、まさしくNPCが増えているというようなイメージが沸くことも理解できなくない。
安倍政権やトランプ政権を支持するのは、もう未来というものにはなにも希望が存在しなく、みんな過去の輝かしい未来を夢見た昔にしか、レトロピアにしか希望を持てないという証左であるというのは、『ニック・ランドと新反動主義』を読んですっとわかった。


ああ、もう絶望しかないからみんな後ろ向きの希望にしか目を向けないし、ほんとうのことを言ったって聞かねえわ。だって、いいことないし、背負うものや負荷ばっかりだから。ここで「成熟」とか大人になるとかの問題が出てくるんだろうけど、まあ、無理だよね。戦後から逃げ続けてたんだから。
これは芸術の問題だし、それらが描き出すはずの未来への希望や夢すらも資本主義の中にあり、オルタナティブなものやアヴァンギャルドという領域がほぼ失われたたからこそ、後ろ向きの希望にしかみんな目を向けれない。


アメリカン・ファーストと思っていなくても大声で言えばみんなかつての夢を再び見ようとする。それにどんなに正しい世界の現状を嘆いてもリベラルは勝てない、二度目の東京オリンピックや二度目の大阪万博など当然ながら不要でやる必要がないし、終わった後には「祭りのあとにさすらいの日々」すらも残されていない。
もう明るい未来がどう考えてもやってこないことがわかっているのだから、過去の栄光に後ろ向きの希望を見出すしかない、これはたぶん、教育と芸術が新自由主義とグローバリズムによって完膚なきまでに負けたということのような気もする。違うかもしれないけど。


そして、ゾンビと幽霊。
今、アメリカで日本の90年代ポップスなどの音楽の再評価が高まっている理由としては、90年代の日本はバブルだった、景気がよかったけれどアメリカは大不況だった。同じ時代にありえたかもしれない可能性としての日本の好景気にあふれ流れていた音楽たちに彼らは夢を見る。
80年代を舞台にしたドラマや映画をレトロピアとして懐かしがりながら2020年代が来るというのに楽しんでいる、リバイバルのリバイバルの繰り返しのように、ショッピングモールが輝かしかったあのころ、現在はもはや廃墟と化した残骸がアメリカ中にある。


しかし、そこには不況になっていなかったかもしれない輝かしい90年代の夢として音楽の、可能性として日本のあの頃の音楽がある。
あるいは海外で日本のサブカルチャーにおけるキャラクターのコスプレをすることでマイノリティ(移民や少数民族、その国でのマイノリティ)が自身のアイデンティティをわずかな期間でも架空の存在にゆだねることで、また、親たちの祖国や失われた国などに自分たちのアイデンティティを見出しづらい人たちがいる。彼はライナスの毛布のように日本のサブカルチャーを纏うことでその時期を乗り越えている。という話を一部では聞く。
もしかしたら、90年代の日本のポップミュージックを今のアメリカで受容し聴かれているという背景と海外における日本のサブカルチャーのコスプレはどこか重なっている気がする。

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