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倫理と教養が必要とされる時代

 大学教員とソーシャルメディアについて書いたが、大学教員がやったらまずいのが倫理違反。そして、求められる教養。この二つについて、どう対応したらいいか。今、模索していることについて述べてみる。(小野堅太郎)

 倫理について語る前に、法律に違反しない、ことは前提である。著作権侵害や名誉棄損にあたるようなことはやってはならない。数々のソーシャルメディアでは、この辺が無法地帯なところもあって、「やっちゃダメなの?」となることもある。本来ならソーシャルメディアの普及に合わせて、こういった講義が小学校から大学まで、教員を含めてなされるべきだが、残念ながらほとんど独学するしかないのが現状である。

 では、倫理とはなにかというと、法律には記載されない社会秩序であり、大学教員がこれを破ってしまうと教育に影響するのでかなりまずい。匿名でやっていても正直ばれるので、匿名だからと調子に乗ると大変なことになるのは覚悟しなければならない。Twitterは発言数が多い分、過去をたどったり、フォローしているアカウントを見ればどんな人かだいたいわかる。匿名の学生も過去のつぶやき追跡すればおおよそ特定することは可能である(わかっても、知らないふりをするが)。倫理は時代とともに変わるものなので、メディア情報を得ることが必要となる。TVを小野はあまり見ないので、倫理のマナビの場はTwitterである。多くの人が匿名なので本音のぶつかり合いになっている。結構、いろんな考え方があって勉強になる。自分の意見はともかく、倫理について深く考える事ができる。

 倫理が大事だと中富先生に話したら「倫理に縛られたらつまらなくないですか。」と言われた。確かに、倫理により発言が制約されるとの考え方もできる。でも、倫理を超えてしまい、発言の意図が相手に伝わらないとしたら、発言の意味がなくなってしまう。かといって、倫理を恐れすぎてていたら何も発言できない。小野と吉野先生とでは、「社会秩序を壊さない倫理」は必要で、そのぎりぎりを攻めることで情報としての価値が出てくるのではないか、と議論している(結論は出ない)。誰しも反社会的な考えは持っているし、思わずそんな言葉が出てしまうことはある。その時は謝るしかない。研究者は聖人ではない。研究は凄いけど人格が破綻している人もいる。

 もう少しわかりやすく、大学人の倫理、について小野の考え方を具体例で解説する。最近、コロナ関係で京都大学 ウイルス・再生医科学研究所の宮沢孝幸先生がTwitterで過激な発言をして話題となった。内容を見ると、非常に合理的で、一つの考え方として成立している。こういった合理的意見は、ある概念に囚われた人達にとっては衝撃的であったのだろう。でも、倫理は超えていない。社会秩序を壊してはいないし、むしろ建設的な一意見である。これに対する反論、それに対する議論などは健全であって、倫理は超えていない。ただし、発言には責任があるし、質問を受けたら返さなくてはならない。逃げて言いっぱなしになると倫理に引っかかってくる。

 二つ目の教養は、すぐには難しい。というのも、教養は積み重ねなので、生きた情報になるためには、若いころからの沢山の興味が必要になる。興味とは、学問だけでなく、本やスポーツ、音楽などである。本はその中でも深い示唆を与えてくれるものが多い。歳を取ってから得た知識はどうしても薄っぺらくなる(小野のTwitter論とか)。大学教員は、ある意味ずっと勉強している状態なので、専門分野について語り、そこに自分の趣味を流し込めばいい。異なる情報の連結は価値がある。気づきは人に驚きと満足を与える。吉野先生と話していると、つくづく教養の塊みたいな人だなと感心する。カニバブラーは全く知らなかった。

 というわけで、ソーシャルメディアの時代は、倫理と教養が必要である。ソーシャルメディアでお金を稼げる人は極わずかである。大学人が金儲けを意識する必要はないので、ある意味自由である。得た知識や能力を使って社会に情報発信することは非常に価値がある。多くの大学人に参加を呼び掛けたい。

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