蓮3

発達障害とアイデンティティ~壮年期の診断

 私がアスペルガー症候群の診断を受けたのは34歳のときだった。それから十数年が経つ(診断経緯診断後の詳細についてはブログを参照)。私の場合はアスペルガーについての新聞記事を読んだのをきっかけに、自分で診断を求めに行った。最初のクリニックでは検査結果をひた隠しにされ、次に訪れた、当時できたばかりの成人向け発達障害専門クリニックで「典型的なアスペルガー症候群」と診断された(当時はまだ自閉症スペクトラムという診断名はなかった)。

 自分で診断を求めたこともあり、障害に対する偏見もなかったため、発達障害という診断をすんなりと受け入れられたし、何よりも、それでそれまでの人生の謎が解けたことが嬉しかった。なぜ物心ついたときから生きることが大変だったのか、その理由がまったくわからなかったのが、アスペルガー症候群ということで辻褄が合ったからだ。知能検査の結果も、自分がどこでつまづきやすいのかを理解する上で大いに役立った。

 しかし、人生の謎は解けたものの、それでめでたし、となったわけではなかった。私は特に治療を要するような二次障害があったわけでもなく、とりあえず自活していたので、診断について周りに話してもほとんど取り合ってもらえなかった。家族に話しても、二度と話題にはのぼらなかった。ほかの当事者との交流も上手くいかず、次第に発達障害のあることを誰にも話さなくなった。ときには発達障害だなんて考えたって結局は何も変わらない、と忘れたふりをして生きようともしてみたが、繰り返し同じような人間関係の問題につまづき、否が応でも思い出さざるを得なかった。

 発達障害のあることを話すと、たいていは「でも今は問題ないんでしょ」と言われる。確かに、歳とともに傍目には対人能力は人並みにあるように見えるようになったかもしれない。けれども、対人体力は普通の人よりはるかに低い。今でも、長時間他人と一緒にいることには人一倍のエネルギーを費やすことになる。現在私が自分を保っていられるのは、在宅で仕事をできる環境にあり、独りでいられる時間が長く確保できるからだ。そんなことは説明しても上手くわかってもらえない。それで結局は口をつぐみ、定型発達であるふりをすることになる。

 診断当時と比べて今では発達障害も周知されるようになり、グレーゾーンの存在がわかってきたと同時に過剰診断を危惧する声もあがっている。とりあえず社会に適応して支援の必要なく生きられるならなぜわざわざ「発達障害」などという必要があるのか、という意見もある。単なる「個性」でよいのではないかと。

 私自身、長いあいだずっと考え続けてきた。もしかしたら、発達障害だということは知らない方が幸せだったんじゃないだろうか、もうここまで生きてきてしまったのだから、今さら発達障害だなんて知る必要はなかったんじゃないか。自分に発達障害があることを知らなかったら、人生はどうなっていただろうか。

 しかし、つい数年前に発達障害者は血糖調節異常と栄養の問題があることが多いということを知り、糖質制限と栄養療法を自分なりに始めたところ、大きく人生が変わってしまった。情緒が安定し、頭はよく働き、疲れにくくなったので体力がアップして仕事の効率が上がり、結果として収入も大幅に増えた。あと数年で人生半世紀、というところにきてようやく生活に余裕ができた。こんなこと、もっとはるか昔に知りたかった。人生のもっと生産的になるはずだった時期に。そうすれば、もっと多くのことができて、情緒の不安定さから無駄に人間関係を壊すこともずっと少なかったはずだ。

 診断から十数年を経てようやく、私は自分に発達障害があるということに折り合いをつけることができるようになった。それは、自分の問題点を正しく認識できるようになったということだけではなく、発達障害者特有の身体面の不具合を改善することで、自分の能力をようやく発揮できるようになってきたからだ。

 発達障害の診断を求めて精神科や心療内科を訪ねる人が増えているというが、発達障害が周知されるようになり、自分にもその問題があるかどうか知りたいという気持ちは、どうしようもないものなんじゃないかと思う。たとえ現在、特に支援を必要としていなくても、自分の問題が生まれつきのものなのか知りたいという思いは自然なことのように思える。

 適切なたとえではないかもしれないが、たとえば、大人になって自分の両親が実の親ではないとわかったときに、育ての親と上手くいっていても実の親が誰なのか知りたい、という気持ちに似ているような気もする。今が幸せならわざわざそんなことを知らなくてもいいじゃないかと思う人も多いかもしれないが、真実を知りたいという気持ちは、支援が必要でなかったとしても自分が発達障害かどうかを知りたいという気持ちと似ているところがあるように思う。それに、「個性」で納得できるくらい、周囲の理解があり、自己肯定感が高ければ、そもそも診断なんか求めるはずがないのだから、真実を知りたいというのはなおさらだ。だから、個性でいいじゃないの、と他人が言うことは的が外れているような気がする。事実、私が診断を求めたのは、自分の生きづらさが自分の努力不足によるものなのか、生まれつきの脳の問題なのかを純粋に知りたかっただけだし、最初のクリニックで診断結果をひた隠しにされたときには、真実を知る権利を奪われたような気分になった。

 個性で片づけたがる人は、発達障害という診断が下ることで本人が絶望的になり、人生の幅が狭まることを心配してのことなのかもしれない。確かに、診断を下されただけなら絶望するしかないだろう(実際には、精神科や心療内科では診断を下すだけでその後のサポートがないことがほとんどなのかもしれないが)。また、そのショックから立ち上がるのにも時間がかかるかもしれない。

 でも、今では発達障害は改善することがわかっているし、そのための手法も数多く明らかにされてきている。もちろん、改善には多大な努力が必要だ。人生を何十年も生きてきた後に突然降ってわいたように発達障害などと言われ、自分や周囲の捉え方を180度変えねばならず、しかもそれを周りには理解してもらえない、そのうえコツコツ努力をしなければならないというのは決して楽なことではない。

 周囲の理解に恵まれ、転んでも周囲の助けを得て、生涯にわたって生きていけるだけの資産に恵まれた環境にある人は「個性」でもいいかもしれない。でも、そうではない人間も多い。改善できるところは改善して能力を発揮できるようにならないと、長い人生を生きていけない。そして、ただ生きていけばいいというわけではない。「個性でいいじゃないの」と言う定型発達者たちが家族をもち、やりがいのある仕事をし、充実した人生を送っているように、非定型発達者だって、できることならそうした人生を送りたいのだ。だから、「あなたはそのままでいい。それがあなたの個性」で片づけるのは、他人事だからであり、きれいごとを言っているに過ぎない。

 30代、40代、50代と自分の発達障害の問題に気づくのが遅れるほど、受け入れるのは容易でなくなる。それまでの自分のアイデンティティが崩れるからだ。幸か不幸かその問題を知ってしまった後は、それを知る前に戻ることは難しい。それを自分の一部として、新たにアイデンティティを築かなくてはならない。でもそれは、自分の一部であって、自分のすべてではない。「自分=発達障害」というように固定されるのではなく、日本人だとか、男性・女性だとかいうように、あくまでも自分のひとつの属性にすぎず、改善につれてその度合いも変わってくる。

 ただ、発達障害という枠組みを用いることで、努力すべき方向が自ずと見えてくる。発達に定型というものがあると考えること自体がおかしいという話もあるが、どちらにしても世の中は標準的な発達をする人たち仕様にできているのだ。もちろん、発達障害とわかったことで、そうした定型発達者優位の社会に合うようにすべて自分を変えるように努力しないといけないわけではない。けれども、そうした社会で生きていかなければいけないことは確かだ(外国やコミューンで暮らすことを選ぶ場合は別として)。どこまでを周りに合わせ、どこまで自分を保つのか、ひとりひとりがその落としどころを探っていかなければならない。

 「障害」という言葉が、人生の改善につながるはずの自分の問題を受け入れることの妨げになるのだとしたら、「発達障害」ではなく「非定型発達」とすれば、受け入れやすく、絶望感も少ないのではないだろうか。実際には発達するのだから、「非定型発達」の方が現実に即しているし、子どもの発達の問題を告知される親御さんも「発達の仕方が大多数とは違うから子育てには試行錯誤が人一倍必要となる」という覚悟もしやすいように思う。私自身も、同じ当事者から「同じアスペなのに障害が軽い」などと言われたり(それは一概には言えないものだと思うのだけれど)するのにうんざりし、支援を受けていいないのに発達障害者を名乗っていいんだろうかと悩むこともあり、「非定型発達」の方が最近はしっくりくる。

 最後になるが、拙訳書『ガイド 壮年期のアスペルガー症候群:大人になってからの診断は人生をどう変えるか』(フィリップ・ワイリー著)が刊行された(現時点ではAmazonの商品ページにタイトル以外のデータが掲載されていないため、詳細はこちらを)。副題の通り、「大人になってからの診断は人生をどう変えるか」ということがテーマで、壮年期だけではなく青年期の方にも、また、診断をめぐるアイデンティティの問題という点では、ADHDの方にも参考にしていただけるので、ぜひご一読いただけたらと思う。同じ問題を抱える人たちがよりよい人生を歩んでいくうえでお役に立てば幸いだ。


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