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"COMMON"としてのプロクラブ。

先日取り上げた #私にとってのベガルタ仙台 というハッシュタグですが、

これを見てもうひとつ思ったことをずっと #熟成下書き にしてしまっていたので、今日はそのことを。


ツイート群を見ていて印象的だったのが
「ベガルタ仙台」というクラブの存在を
「自分」そのものとして見ている人が多かったことで。

他のJクラブでも、またBリーグのクラブなんかでも、
同じような感情を持っている人は多いかと思いますが、
これってよく考えると不思議ですよね。

クラブそのものはもちろん人格など持たないし、
自分という心身からは切り離されたフラットなもの。
身も蓋もない話をしてしまえば、チームがどうなろうと、自分の人生、日常は一瞬も留まることなく進んでいく。

でも一方で、自分の心とクラブが深くつながって、
チームの存在が、自分自身の生活・日常そのものだと感じられる。
チームという「仮想人格」の味わう喜びや痛みを、
自分自身の喜びや痛みとして同等に感じることができる。
そういう人が、少なからずいて、お互いに関わり合っている。

「応援する」というものはそういうものだ、と言われると確かにそうかもしれないけれど、
本来「応援」という言葉を字義そのままに捉えると、おそらく一方向的なものであるとも思うんです。

おう‐えん〔‐ヱン〕【応援】 
[名](スル)
1 力を貸して助けること。また、その助け。「選挙運動の応援に駆けつける」「応援演説」
競技・試合などで、声援や拍手を送って選手やチームを励ますこと。「地元チームを応援する」「応援団」

そう考えると、同じようで少しベクトルが違うような気もするし、
同じスポーツでもプロ野球とかだとあまり見られない傾向かもしれない。
(ただ楽天イーグルスとかはちょっと例外かも)

いずれにせよ、クラブという存在を
「自分自身」として捉えられる、そう思える人がたくさんいる。

クラブが、単なる「興行」「ビジネス」としてだけではなく、
人と人を結ぶ「公共物(common)」としての役割を果たしている一例だと思うし、
クラブがこれからも多くの人に応援されて存続していくために、
ますますなくてはならない視点なのだろうなあと思います。

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