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水晶の記憶

「おや、月の光に水晶が浮かんでいるぞ」

見上げると近所のMUJIのロゴだった。どうも頭がくらくらしている。ここ数日、仕事に追われてほとんど眠れていないのだ。店先に呆然と立ち尽くしていると、紙やプラスチックのうす甘い匂いがふわりと鼻先に流れてきた。

ああMUJIの匂いだ。清潔な生活の匂いだ。おれは一つ深呼吸をして、店内へ足を踏み入れた。

巨大な木の棚がズシーンと荘厳にそびえ立っていた。ハンガーにかかった無数のブロードシャツ。ざらついたコットン生地の鮮やかなペールブルーが、目の中で世界のように広がった。

店内に鳴りひびく音楽がおれの鼓膜を震わせる。都市でも森でも砂漠でもない、どこでもない場所を思わせる透明な水みたいな音楽。すずしげな鈴の音とパーカッションのビートが爽快に乱反射する空間で、心がはらはらと解きほぐれていく。

たちまち静かになる。不思議なことだ。さっきまで自宅で終わらないプレゼン作業に打ちひしがれ、ついに床に身を投げ出して「うわあ」「もうだめだー」などと叫んでいたというのに。

いつだって生活の中心にあったMUJI。ここに並んでいるアイテム全てが、あるいは空間そのものが、おれの身体や記憶の隅々にまで根を下ろしていて、そこら中に息づく記憶の安らかな気配に包まれるのだろうかーーー

ふふ。おれは湧き上がってくる陰気な喜びを噛み締めながら、ゆっくり店内を歩いた。

前から右から左から天井から、素早く目に飛び込んでくるアイテムが、色々の記憶を鮮やかに呼び起こす。

受験前夜にラテン語を書きなぐったキャンパスノートがあった。無職になって雑木林でのたうち回った時のスニーカーがあった。そして、食料品コーナーに山積みとなったバウムクーヘンを見つけた時、いつかロンドンで過ごした午後の記憶がサーっと全身を駆け巡ったのだった。


あれはすがすがしく晴れた夏の日だった。会社の休暇を使ってロンドンに逃避行していたおれは、ずっと夢見ていた「自分探し」の収穫もないまま帰国まで残り一日となり、公園のベンチに座って途方に暮れていた。数日後にはまた、御茶ノ水のあの湿っぽいオフィスで自分をじわじわすり潰すばかりの日々が待っているかと思うと、ひどく憂鬱な気分だった。

そこはロンドン郊外にあるBrentham Meadowsという所で、揺らめくうす青いやなぎらんの連なりにツツジやラベンダーがはげしく咲き乱れる見事な公園だった。

朝ホテルでカスカスに焦げた椎茸か何かを食べたきりで、ひどく腹を空かせていたおれは、中心街のMUJIで買ったバウムクーヘンを夢中でむさぼり食っていた。すると向こうの草むらから一匹のリスとラッパー風の男がものすごい速さで駆けてきて男が「どうもバディピースです」と突然自己紹介をするので「バウムクーヘンはいかがですか」と差し出したところ、リスもバディも獰猛な目つきでかぶりつき「ヒュオ!ヒュオ!」と叫びながら滴り落ちる緑の斜面を無様に転がり落ちていったので、おれも彼らを追ってなかばヤケで火の車のようにはげしく回転して草むらに転落し、バウムクーヘンをガンガン咀嚼しながら見上げた空の圧倒的な青さだった。

美しかった。

いつの間にかリスもバディピースもどこかへ消えていたが、そのとき口中に広がったバウムクーヘンの甘さは、生きることのまぶしさそのもののように、おれの虚ろな気持ちを満たして夏の午後にとおく深く響いたのだった。

ふたたび立ち上がるべく〈んしょ〉と身体を横向きにすると、しおれたシダが群生する温室の硝子がヨーロッパの濃い光に貫かれて、水晶のようにきらめいていたーーー

そして今、おれの目の前にあるのは、あの時と同じバウムクーヘンだ。ちょっと震えてくる。ひとつ手に取ると、リスやバディとロンドンの熱い午後にまみれた時の活力が指先から清流のように伝わってきて、なんだか全身に元気が目覚めてきたのだった。

新しいジーンズでも買おうかなあ。気高い紳士みたいに足取りかるく街を闊歩して。いっそ転職してバリスタになろうかな?それかアーティスト?もう一度ロンドンを目指すのもいいな。さあ新しい計画を立てよう。頑強なノートとペンを買おう。りりしい青のインクを滴らせて、毎日を振り切るスピードで何本も何本も光の言葉を走らせてみせよう。もう一度?もう一度?

正午のMUJIでおれは幸福だった。

店内はランチタイムのにぎわいだった。店員さんが初夏を思わせる華やかなシェイプの水筒を陳列していた。音楽はいっそう静かにうす甘い空気を揺すっていた。

おれは記憶の手触りを確かめるようにバウムクーヘンをしっかり握りしめ、勇ましい足取りでレジに向かった。

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