見出し画像

ゴヤの色紙

大学の研究室の同期だった小屋守くん。はじめは読みどおりコヤと呼ばれていたのだが、あるとき彼が「ゴヤでお願いします」とやけに強く願い出たので、みんなそう呼ぶようになった。

その名に込められた魔力。ゴからヤに向かってすーっと抜けていく響き。ごつごつした黒い石みたいな感触。発音するたびに胸のあたりに謎の心地よさが広がるので、みんな彼の姿を見つけては「お疲れゴヤ」「ゴヤよろしくな」「ゴヤだよなゴヤ」としきりに呼びかけ、呼ぶほどにさらに深くなる響きに夢中になってしまった。

小屋くんは実にしたたかな男だった。

3年生になって研究室に入り、はじめの講義で彼を見かけたとき「おっ」と思った。猫背でぽっちゃりした体躯からも、薄茶色のポロシャツとチノパンの服装からも、いかにも冴えないルーザーの風情がぷんぷん放たれていたからだ。

ーーこりゃあ友達になれるぞーー

おれは授業が終わると同時に陰気な蛇のように彼の元へシュルシュルすり寄っていき

「まったく困りましたな。こんなアッパーな研究室に入ってしまって」

「ええ、なんとかがんばりましょう、、」

今にも消え入りそうなかぼそい声。たった一言で何かが通じ合った気がした。ついに友達ができたーーーその年の新入りはおれと小屋くんのふたりだけだったから、なおさら嬉しかった。

先輩たちは、すでに缶ビールを片手にかるく叫び踊りながら新歓の準備を始めていた。おれたちは一瞬の隙をついて研究室の外に退散すると、さながら相棒同士のように肩を組んで爽快に階段を駆け下りて行った。

それから数ヶ月後。ちょうど〈ゴヤ〉の名が浸透し始めた頃だった。

真夏に5時間ぶっ続けで行われたディスカッション。激しい白熱のあとの研究室には、湿った紙類、エナジー飲料、ユースにみなぎる汗、うすい花、柔軟剤などが入り混じった、悩ましい匂いが立ち込めていた。

むせかえるような匂いに当てられて、いっときも早く研究室から出たかったおれは、廊下に小屋くんの姿が見えたと同時にいびつな駒のように近づいていき

「やってられませんな」

と首をすくめてみせる。しかし、小屋くんは頷くかわりに、かるく眉を潜めてから蔑むような目でおれを見て、そのまま研究室に戻っていったのである。

「ゴヤくんお疲れゴヤくん飲み行こうよゴヤあるところにゴヤだろゴヤゴヤふふよろしくな」

椅子にちょこんと座った小屋くんが先輩たちに囲まれ、気恥ずかしそうな笑顔を浮かべていた。

アアア!小屋くんが光に溶けていくーーーおれはうす暗い廊下に取り残され愕然と立ちつくしてしまう。

その後のゴヤくんのしたたかな所業。授業中に奇抜な発言をする、教授と飲み仲間になる、後輩たちの前であえておどけてみせ「ゴヤ先輩なごむー」と懐柔される、などもうやりたい放題で、おれにかける言葉も日に日に冷淡なものになっていった。

おれは研究室にほとんど顔を出さなくなる。


あっという間に卒業の時期がやってきて、授業の最終日、研究室の後輩たちが駅前のレストランでささやかな送別会を開いてくれた。ひととおりの乾杯と談笑、教授から激励のメッセージが送られた後で、知らない学生から花束が差し出される。

「お二人とも、本当にお疲れさまでした」

白い薔薇の花束には色紙が添えられていた。

すかさず目に飛び込んできたゴヤくんの色紙。そこには鮮やかな色合いの線が何本も流れ、数々のエピソードや感謝の気持ちがあふれんばかりに綴られていた。中央には、おそらくゴヤくんを模したのだろう、おどけた山羊のようなキャラクターが描かれており、あたたかい言葉と虹色の洪水にまみれてもしゃもしゃしていた。

わずかに胸が高鳴る。おれはひとつ深呼吸をしてから自分の色紙を見た。


髪型お似合いですねマッシュ
マッシュ先輩って呼んでました

英訳が見事でした
発音が素敵ですね

英語先輩です
語学マッシュ


後輩たちはマッシュと英語の2パターンを使い分け、なんとか被らないように量産したメッセージで色紙を埋めていた。のこりのスペースには煤けた星とかやせ細った鳥などのフリー素材が適当に貼り合わされており、細く切ったアルミニウムをふしゅふしゅしたものが申し訳程度に添えられていた。

それは、おれの大学生活をそのまま表した陰惨な絵画だった。何もなかった。何もなかった。諦めにも似たしっとりと薄明るいものに身をまかせていると、後輩たちに囲まれたゴヤくんと目があった。

ゴヤくんはいちど目配せして「オッケー」と猛々しく叫び、右手の親指をぐっと突き立てた。

オッケー?オッケー?いったい何がオッケーなのだ?

おれはレストランを飛び出した。

息を切らしながら疾走して町外れの公園に到着すると、色紙を両手で力一杯へし折り、はじける紙の音とともに握りつぶし、最後に拳でッラアァァァ!!とゴミ箱へ叩きこんだ。

空のゴミ箱からかたい鉄の感触。その衝撃が指に伝わり、腕に伝わり、胸に伝わり、全身が目覚めるようだった。

そのまま地面に崩れ落ち、仰向けになるといちめんの星空だった。無数の星がリヴァーヴのように広がり、光のひと粒までシンと空に鳴っていた。頭上には月光に透かされた硝子の枝が小粒の白い花を顫わせていた。

おれはいつか来る夜明けを思って、いつまでも星空を見上げていた。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?