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巨きな青のプールで

おれは飛び込み台からプールを覗きこんでいる。

プールに溢れる水は、午後の光をたっぷりと吸い込んで、深い青に色づいていた。ときおりサーッと高速でひびく波紋が水面を駆けまわり、べつの波と衝突するたびに、新しい青がシラシラきらめいて目に飛び込んでくる。

プールはどこまでも澄みわたり、またぞっとするほど巨きく、まるで透明な宇宙がそこにあるようだった。


小学4年生の夏休み。ドイツの日本人学校に通っていたおれは、友人の富生くんと連れ立ってこのプールにやってきた。

〈日本では味わえない体験ができる〉と噂になっていた謎のプール。鬱蒼とした森の中から突如あらわれる、うす緑色のゴツゴツした硝子を可憐な鉄で編み上げたようなその外観に、何かただならぬものを感じた。

「練馬のプールとずいぶん違うね」

「いやあ荘厳だねえ」

おれと富生くんはもどかしく着替えをすませ、シャワーを浴びて、石造りのタイルを踏みしめ踏みしめプールに駆け出していく。

そこには5レーンのプールがいくつも並び、見慣れた区民プールより何倍も大きく感じられた。開け放たれた天井に広がる夏の空。ヨーロッパの陽光が四隅に打ち立てられた硝子の柱に反射して、水面やタイルに複雑な影をまきちらしていた。

夏休みのプールは心地いい活気に満ちていた。悠々とクロールする男性、光にまどろむ家族連れ、優しくさざめく水の音ーーー

「まるでパラダイスじゃないか」

富生くんが目を見ひらいて叫んだ。


3メートルの飛び込み台の上で、おれはシンシンのぼってくる悩ましい水の匂いに怯んでいる。

眼下に広がる濃い青は、まるで誘いこむように、妖しくきらめきながら揺れていた。せっかくここまで来たのだーーーついに覚悟を決めたおれは、震える両手をまっすぐ空に向かって振り上げ、ボードをたっぷり軋ませて飛び上がった。

ズシャアアアアという轟音が立ったあと、身体が水のかたまりを切り開き、こまかい気泡が弾けて猛烈なスピードで肌をかすめていく。

少し潜ると、あっという間に底に手がついてしまった。あたりを見わたすと退屈な水面の揺らぎがあり、気ままに足をつけて遊泳する大人の姿があった。なんだか拍子抜けして、いちど引き返してしまおうかと思ったが、よく見るとタイルは少し先で途切れていた。おれはタイルの淵に手をかけて、おそるおそる下を覗きこんだ。

そこには巨大な空間が広がっていた。10メートル、あるいは20メートルーー無限にも感じられる深い底に向かって視界がストーンと落ちていく。

ーーやっていやがるーー

おれはもうさっきの恐怖も忘れて、夢中になってザンザン潜っていく。

深く潜るほどに、プールの水はさらに青く透きとおっていった。シュノーケルから銀色の粒を吹きあがらせて、底に足をつけると、体験したことのない感覚が訪れる。それは完全な静けさだった。プールの底でシンと眠っている水は、もはや波が立てる音に顫えることすらなく、あたりには真空のような静寂がひびいていた。

遥か上では水面がさわがしく揺らめいている。さっきまで覗き込んでいた水面の裏側は、光や浮き輪の色あい、プールに飛び込こむ人々が残していく泡のカーヴが入り混じったおぼろな流れだった。

富生くんはどこだろう?クロールしていた男性は?しかしプールの底から見上げる世界はぼんやりとした桃色で、事物の輪郭はほとんど溶けだしていた。こちらの世界では全てがクリアで鮮明で、青はもはや透明になっている。おれはデジタルノイズが一瞬だけ澄みわたったような静寂の中にいた。

ーーみんな青の中にこんな世界があることを知っているのだろうか?ああおれはいつだってぼんやりした桃色の世界にいるのだなあサッカーもピクニックも楽しいけど全ておぼろな流れに過ぎないのだ、きっとまた静かな青の世界を見つけてみせようーー

タイルを両足でグッと押して、一気に水面まで登っていく。身体がだんだん軽くなって、やがて何か硬い膜のようなものにザンと当たったあと、肺につめたいうまい空気がながれこんできた。

全身で水滴がはげしく弾ける。何度もまばたきしているうちに、青いプールもパラソルも人々の姿も、じわじわとその輪郭を取り戻していった。

頭上には夏の空が高々と晴れ広がっていた。

さっきまでの澄みきった青の世界、複雑な色や線が溶け混ざったこちらの世界、突然あらわれた完全な静けさーーー

おれは妙にそぐわない気持ちでプールに浮かびながら、めまいのするような陶酔を味わっていた。

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