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災害研究者が新型コロナウィルス感染症について考えてみた(10)コロナ禍における菅政権の「賭け」

1.続くコロナ禍

最後の執筆から、半年以上が経過してしまった。感染症の再拡大だけでなく、政策面でも緊急事態宣言の再発令やワクチン接種の開始といった変化が見られたこともあり、いずれ緊急対応のステージを脱した頃に新しい記事を書こうかと考えていたため、しばらく筆を置いていた。

しかし、現実には、その後も「感染症管理サイクル」における緊急対応のステージから抜け出す目処が立たないまま、今日までコロナ禍が続いている。

さらに、2021年7月の東京オリンピック開催が迫ってきたことで、市民の間で燻る不安が隠せない状態になりつつある。2021年6月24日現在、緊急事態宣言は解除されたものの、東京都の新規感染者数は再び増加に転じつつある。

とはいえ、感染症管理サイクルから言えば、緊急対応のステージにあたる今、優先すべき政策目標は「感染症の収束」であることには変わりがない。感染症の抑制が進めば、社会活動の平常化も進み経済活動の再生にも弾みがつくだろう。

さらに、感染症の収束に向けた戦術も明らかになりつつある。ワクチン接種が完了に近づけば、大幅に感染状況も改善することが期待できるという。それまでの間は、例えば、PCR検査等による感染患者の早期発見と隔離、緊急事態宣言の発令や個人や企業への防疫投資としての経済支援による人流の低減、家庭や職場、店舗等での感染対策の徹底等の手段で感染を抑止することができれば、その後の社会活動の正常化も加速するだろう。

2.高まる政府への不信感

しかし、これまでの日本政府の感染症対応を見れば、そうした合理的な感染対策を政府が優先して実施するということに期待が持てなくなってきている。現に、コロナ対策への評価が強く反映されているであろう各種世論調査の結果も、菅政権が誕生して以来、その支持が継続的に低下していることを示している。

支持率の低下の原因は、菅政権によるコロナ対策が徹底している印象を持っていないことが一因だろう。現に、現政権は感染収束を最優先の政策課題として扱うというよりも、経済活動への影響が容認できる範囲内で、感染収束に向けた政策手段を小出しにしている印象が拭えない。実際に、菅総理は過去に感染症対策と社会経済活動の両立を目指すことを明言している。

オリンピック開催に関わる現政権の対応は、現政権によるコロナ対応の象徴的な事例である。前安倍政権では1年の開催延期を決定したが、菅政権になってからは2021年7月からの東京オリンピックの開催に関して、表向きには中止の選択肢を検討したという報道が全く聞かれない。

むしろ、観戦客数の上限緩和、海外からの選手団の感染管理、二転三転する酒類の提供に関わるルール決定等の一連の報道を見ていると、政府は厳しい感染対策の許す範囲内で大会を開催するというよりも、何としても相応の観客を動員して、平時の雰囲気に近い中でオリンピックを開催したいという意欲を持っているように見える。付け加えれば、そうした政府の方針に対して不安を持つ市民に対して、菅総理がこれまで自らの言葉で大会開催の意義や目的に関して説得的なメッセージを発してきたとは到底思えない。

3.やはり現実はパニック映画のよくできた比喩なのか?

こうした政府の姿勢がオリンピック開催期間中、あるいは開催後に、大幅な感染再拡大をもたらすのかどうか、個人的にそれを見通せるだけの知見は持ち合わせていない。多くの人々が予想するように、東京五輪は悪くすれば国際的な感染拡大のイベントとなり得るかもしれない。実際に、オリンピックよりも小規模な国際イベントである先のG7が開催された英国コーンウォールでは、新規感染者数の非連続な増加が見られたという。他方で、大方の人々の予想に反して、東京オリンピックは平和裏に開催され、大きな感染拡大や海外へのウィルス波及も引き起こさず、称賛される大会となるかもしれない。日本人の一人としては、仮に同大会を開催するのであれば、こうなることを願わずにはいられないのが正直なところだ。

しかし、なぜ政府はそうまでして東京オリンピックを始め、コロナ禍中において社会経済活動の維持・拡大を図ろうとするのだろうか。

ここでは改めて以前の記事でも紹介したスピルバーグ監督の名作映画「ジョーズ」を引用しながら、このことについて考えてみたい。

3−1.映画に見るリーダーの果断な危機対応への逡巡

スピルバーグ監督の名作である映画「ジョーズ」は、平和な海のリゾート街であるアミティにやってきた新任の警察署長が、鮫による被害者の出現に遭遇するところから話が始まる。

あらすじは要約すれば、警察署長(地方自治体の首長の比喩?)が、鮫による被害の発生を認めたがらない市長、行政関係者、またその支持者である経済団体(政府?)と対立しながらも、外部の海洋学者(専門家?)の協力を得ながら真相の解明を続ける。

その間、次々と被害者が増え続けていく中で、市長も鮫による被害の発生を認めざるを得なくなる。その後、遂に鮫の駆除に成功したという一報を聞き、危機が去ったとして、市長は街の経済再生のために「海開き」を決断する。しかし、実はこれは真犯人である巨大鮫とは別の小さな鮫であることが海洋学者と署長の共同調査で明らかになる。

苦心の調査結果を示しながら必死に「海開き」の延期を求める署長と海洋学者に対して、市長は「(真犯人の巨大鮫がまだ海にいるという)そんな証拠はない。」「自らの売名行為のために街に迷惑をかけるな。」と吐き捨てる。そうした中、海開きの初日に真犯人の大型鮫は再び砂浜に現れ、人々を恐怖に陥れる。

パニックが去った後の病院で、「浜辺には私の子供もいたんだ。」と震えながら告白する市長に対して、署長は鮫退治の専門家を雇って大型鮫を駆除することを迫る。

この話のポイントは、(1)市長とその周辺の人々は、鮫による被害の発生を認識しながらも、海開きの経済的重要性を鑑みて、海開きと観光客の受け入れを行うことを決断すること、(2)大型鮫が海開きの日に現れ、市長を含む多くの人々がその恐怖に晒されたことで、市長は一転して抜本的な鮫対策に舵を切ることに同意する、という二点である。

第一のポイントについて考えると、「市長は海の街アミティにおける観光産業の重要性を重く見たのだ。」と言われれば、一瞬、納得してしまいそうにもなる。

しかし、よくよく考えてみれば、危機の存在を認識しつつ、行政が「海開き」を容認したことが後に明らかになれば、今後、そのような街に観光客は寄り付かなくなるだろう。市長側は得られる目先のメリットに対して、長い目で見れば過大なリスクを引き受けているようにも見える。危機を知りながら抜本的な対策を講じずに経済活動の継続を容認しようとすることは、市長が余程目先の選挙や内政上の手柄に囚われていない限りは、それほど合理的な行動とは言えないように思える。

では、なぜ市長は、一見、非合理的なリスクを取って経済活動の維持・継続を決断したのか。ここでは第二のポイントについて考えてながら、その理由を推測してみたい。

砂浜での惨劇の後の病院のシーンで、市長は「(自身の決断は)街のために良かれと思ってやったことなのに・・・。」と後悔の念に苛まれながらも、「私の息子も砂浜にいたんだ。」と告白して、遂に抜本的な鮫対策に乗り出す。

このエピソードは、それまで鮫の被害とは無縁だった市長が自らの家族が危険に晒されることで初めて「被害の当事者」となることが、リーダーとして巨大鮫という街の危機に立ち向かう決断をする上で欠かせない事象であったことを示唆している。

では、ここでこの映画の筋書きを変更した場合に何が起こるか、想像してみよう。

例えば、もし砂浜に市長の息子がおらず、市長自身が被害の当事者にならなかったならば、市長はどのような行動を取っただろうか?抜本的な鮫対策に乗り出さない可能性もあったのではないか?これはあくまで推測の域を出ないが、何らかの鮫対策を実施し、数日ビーチを使用停止にした後ででも、海開きを継続する声明を出すのではないだろうか。

なお、作中、この市長は私利私欲に目が眩んだ強欲な人間としては描かれていない。むしろ様々な利害関係者の声に耳を傾けたり、他人への気配りができる人物として描かれている。実際、署長が犠牲者の遺族に厳しい言葉を投げかけられたシーンでは、「君のせいではない。彼女は何か誤解しているようだ。」と言って、署長を庇うシーンがある。この市長が周囲の声を無視して、自らの利益のためだけに海開きを継続するというシナリオは、やや考えづらい。

つまり、様々な人々の利害を視野に入れた上で、政治家として鮫の脅威によるリスクと経済活動の継続によるメリットを勘案した結果、自身に大きな影響が生じない限りは、鮫の出現というリスクを引き受けてでも海開きを実施し経済活動を維持することは、市長から見れば合理的な判断だと考えられる余地があるのではないか。そして、このことが、砂浜の惨劇に至るまで、市長に抜本的な鮫対策を講じることを思いとどまらせていたのではないか。

3−2.リーダーのモラルハザードの背景

では仮にその考え方が正しいとして、なぜ市長は鮫の脅威を理解しつつも、経済活動を継続することが合理的だと判断できるのだろうか?

仮に、市長が鮫の脅威を正面から認識し、それに対応する政策を実施するとなった場合には、彼は政治家として不利な状況に陥ることになる。なぜなら、鮫の問題を大きく取り上げることで、主たる支持団体である経済団体からの評価は確実に低下するだろう。経済団体はそうした脅威は小さいものであると主張しつつ、経済活動への影響に極めて敏感になっている様子が作中でも描かれている。

さらに、鮫の駆除に成功すれば市民からの支持は拡大することが期待できるとは言え、鮫退治は確実に成功する保証はない。また、仮に成功するにしてもどれくらいの期間が必要になるかは未知数である。鮫退治の期間が長引けば長引くほど、行政の能力不足に不満を感じる市民からの支持が低下することは必定だろう。

こうして考えると、鮫の脅威に正面から対峙することは、政治家としてはメリットよりもデメリットのほうが大きい。

他方で、鮫の脅威に真摯に向き合わない場合には、市長の得るメリットはデメリットを上回るように思われる。なぜなら、第一に、鮫の存在を否認することで経済活動の維持を図ることができる。このことは支持者である経済団体から見れば好ましいだろうし、結果として、支持率は上昇する可能性が出てくる。

第二に、仮に鮫が観光客に被害を与えてしまい、市の責任が問われる事態になったとしても、市長がその政策判断の誤りを理由に、個人的に損害賠償や刑事罰の対象になるとは考えにくい。支持母体である経済団体も、やむを得ない政策対応の失敗として許容する可能性がある。

だとすれば、仮に次の選挙に出馬するとしても、現職有利な状況は大きく変わらないのではないか。この場合、市長が危機下で経済活動を継続することのメリットはそのデメリットを大きく上回っているように見える。

つまり、市長にとっては、鮫の存在を正面から見据えて政策対応を行うことで得られるネットの利得よりも、鮫という脅威を容認しつつ、抜本的な対策を講じないことで得られるネットの利得の方が大きかったために、鮫退治を政策対応において優先しないことが合理的だと考える余地があるように思われる。

作中で市長が「家族が鮫の危機に晒された。」という事実は、こうした状況を大きく代える要因となったと考えられる。政治家としては人食い鮫の登場という危機に正面から向き合うことをせずに政策判断を行うことが合理的であったとしても、一人の人間としては子供を鮫の危機に晒したことで恐怖を覚えたことで、判断の根拠となるネットの利得に変化が生じる。鮫のリスクを軽視することによるデメリットは、親である一人の人間としては、そのことで得られるメリットを大きく上回っていたと考えれば、市長が鮫の駆除に政策方針を転換したこともうなずける。

3−3.得られる示唆

仮にこうした映画「ジョーズ」の見方が、コロナ禍の中の日本の現実に対する良くできた比喩であるという仮定が許されるならば、現政権が社会経済活動の平常化とオリンピックの開催にこだわるのは、「仮に、オリンピックの開催や経済活動の平常化によって感染拡大が起きたとしても、政治家として見れば、そのことによるデメリットは経済活動の維持やオリンピック開催によるメリットに比べれば小さい。」と考えているのではないだろうか。一部のメディアが言うように衆議員選挙を見据えて支持率の拡大が期待できるということもあるかもしれないが、この問題は、菅総理一個人の政策志向やその支持者との利害関係の上で、オリンピックを開催し経済活動を優先するというのではなく、コロナ対応を誤ったとしても、政治家として被るデメリットが小さいという制度の構造上の問題がそうさせるのではないか。

ではなぜ、コロナ禍の封じ込めに失敗しても現政権あるいはそのリーダーが被るデメリットが小さいのか。幾つかすぐに理由が思いつくが、現在の自民党に対する支持率は野党のそれよりも圧倒的に高いため、政権交代は起きそうにない状況が続いていることが一つ挙げられる。さらに、コロナ対応に失敗したとしても、総理や内閣の面々が、個人として損害賠償請求や刑事罰の対象となることはないだろう。また、「想定外の事態が生じた」と言えば、コロナ禍における政策対応の失敗についても、同情から幾らか免責される可能性は小さくない。現に、東日本大震災の際にも、「想定外」という言葉が企業人の免罪符として機能している。

これらの小さなデメリットに比べれば、政治家として「経済活動の平常化を推進し、オリンピックの成功に向けて努力することで得られるメリット」はずっと大きいように思われる。経済活動の再開を心待ちにしている人々は確かに相当数に上るだろうし、オリンピックの開催に不安を持っている人々も、アスリート達に不満を持っているわけではないだろうから、テレビで活躍するメダリスト達を見れば、人生の檜舞台に登る様子を見て「開催して良かった。」と感じる人々が出てきても不思議ではない。

差し引きして考えれば、正面からコロナ危機に立ち向かい、感染収束を最優先に政策対応を行うことで得られるネットの政治的利得は、感染対策と経済活動、そしてオリンピック開催の両立を図ることのネットの政治的利得に比べれば小さいのかもしれない。

実際、菅総理のオリンピックに臨む姿勢について「賭け」と表現する報道は複数存在する。コロナ禍における五輪開催が吉と出るか凶と出るか、ということを「賭け」と表現しているのだろうが、ただし、ここで賭けの対象になっているのは人々の生命・身体・財産における犠牲と政権側の政治的利得であり、賭け金を支払う側と報酬を受け取る側が非対称であるという問題は指摘しておかなければならない。

ここには、リーマン・ショック後になされた投資銀行への批判との共通項が見受けられる。当時、金融危機の引き金と言われた投資銀行による過大なリスクテイクが可能となった理由の一つには、リスクの高い金融商品の販売という事業者側のチャレンジが、結果、成功し場合に得られる利益が膨大であること対して、リスクが顕在化した場合に投資銀行の社員個人が負う責任の範囲とその重大性が小さかったことが指摘されている。賭けに出ることのメリットばかりが強調され、事後のテールリスクが過小評価される報酬体系が、投資銀行による過剰なリスクテイクを可能にしたと批判する意見がある。

4.市民の声を反映した政策の実現に向けて

危機の渦中にあって、権力の座にある者達の過剰なリスクテイクを止められないのだとすれば、市民の政策選好を反映した政治的決定がなされないだけでなく、その事自体が社会にとって大きなリスクと言える。

こうした状況を改善し、感染症の収束が確認されるまでの間、政府によるコロナ対策の政策対応の優先順位を上げるよう要請するためには、コロナ禍への政策対応の失敗が政権側にとって相応のデメリットになるような制度設計を行い、権力者に相応のリスクを引き受けさせることが必要となる。例えば、以下の点を考えてみても良いかもしれない。

第一に、選挙制度の改正を行うことで、無党派層の投票率を図ることが考えられる。今でも、菅政権の支持率は低下傾向であるものの、政党支持率では支持基盤が底堅い自民党が依然として圧倒的に優位な状況であり、野党の細分化を背景に、支持政党なしの無党派層が拡大している。野党連携による政権交代を目指すことも重要かもしれないが、例えば、選挙の投票率が一定よりも低い場合には再投票となる等、浮動票が死票にならないような制度設計も必要ではないか。あるいは、少子高齢化社会にあることを考えれば、選挙権を持たない子供の代理投票権を親が有することを許容することも一案かもしれない。いずれにせよ、無党派層の投票率を上げることで、既存の支持基盤の影響力を下げるような制度設計を行うことも一案だろう。

第二に、コロナ禍への政策対応の決定過程やその議論の詳細について広く市民が知ることができるように、内閣や与党、省庁における政策の意思決定やその議論に関する公文書の保存とその早期の情報公開の徹底、そして、公文書の範囲拡大を行うことが考えられる。

一説には、今回のコロナ禍における重要な政策議論の場の中には、議事録の作成が義務付けられていないものもあると言われる。

こうした状況では、市民が政策決定の是非について判断する材料を得られないことから、構造上、政権に批判を加える材料を増やすことができない。森友問題を始めとして、「政策決定の透明性の向上」に注目が集まっている状況を考えても、歴史的緊急事態にあたるコロナ禍において、その範を示すことの意義は決して小さくない。幅広く事実を共有した上で、政策対応の是非を巡って市民間の議論を喚起することは、投票率の向上や支持政党の分布の変化を促す上でも重要だろう。

なお、政策対応の決定過程やその議論の情報公開は必ずしも与党にとってマイナス材料を提供することにはならない。真摯で誠実な市民の目線に経った政策対応を行っていることを広く市民が知るところとなれば、一層、与党を支持する人々が出てくる可能性もある。「政策の実施やその議論によって、その支持を拡大する」ことは、政治家の本来の役割だろう。

第三に、政策決定の現場に、多様な専門家を導入できるようにする必要がある。現在、分科会や厚生労働省のアドバイザリーボード等において、コロナ禍への対応を行っている専門家が多く存在することは確かだが、長く続くコロナ禍の間でそうした顔ぶれは大きく変わっていない。

こうした人々の献身には頭が下がる思いだが、専門家も互いに競争しながら、その政策提言を競い合うことが、より良い政策分析の蓄積を図る上でも重要だろう。政策データへのアクセスが研究の質に大きく関係することも考えれば、複数の専門家会議を常設するなり、分科会等で多層的に下部の部会を設けるなり、アメリカのシンクタンクと大学の関係のように、多様な専門家がリボルビング・ドアで省庁や政策形成の現場に出入りするような環境を整えるなり、コロナ禍を奇貨として行政の労働市場を新たに整備することも考えても良いのではないか。

折しも、電通を始めとするお抱え業者やいわゆる御用学者と呼ばれる人々への批判があることも考えれば、事務局側がその政策形成の意向に沿って裁量的に専門家を選択できる構造を有していることを改める必要もあるだろう。この点は、公文書で委員の候補の選出および決定過程を残しておくことが肝要だろう。さらに、多様な専門家がコロナ対策に参画することで、幅広い角度からの政策対応の事後検証が可能となれば、今後の政策決定における資料が充実することで、将来のリスク対応の精度が向上することも期待できる。そして、政権が利己的な政策対応に走る場合には、こうした専門家達の多様な分析がそれを明らかにすることになろうから、行政の規律付けに資することにもなる。

5.「想定外」のリスクシナリオへの備えは必要か?

映画「ジョーズ」では、警察署長と海洋学者、鮫退治を生業とする漁師の勇気ある行動と犠牲によって、遂に巨大鮫は退治されることになる。コロナ禍というリスクを克服した日が来るのは、行政、企業、市民が連携して、新型コロナウィルスという巨大鮫に「ワクチン」という銛を突き刺した時だと考えられている。

しかし、危機管理の常道は「万が一」のシナリオを可能な限り想定しておくことである。最後にそうした「起き得ないリスクシナリオ」について検討してみたい。

最も恐ろしいのは、現在接種が進んでいるワクチンが新型株に対して効力を持ちにくいということが判明するシナリオである。現状、こうしたシナリオが実現する蓋然性は高くはないものの、その可能性を指摘する報道は見られる。

感染症対策の切り札がワクチンであると言われている中で、伝家の宝刀が錆びているとなれば、感染症対策のあり方を根本的に見直さざるを得ない。映画「ジョーズ」の中でも、誤って別の鮫を真犯人と勘違いして、鮫退治が完了したとぬか喜びするシーンが見られる。ワクチン接種が進んだことでコロナ禍を克服したと喜ぶのは、真の危機を前に油断する態度に等しいのかもしれない。

こうしたシナリオが現実とならないことを祈るが、ワクチン以外にも感染症の収束に向けた手段は開発しておく必要があるだろう。例えば、緊急事態宣言による感染抑止の効果は、政府や専門家への不信感の高まりやコロナ収束に向けた戦略シナリオが不透明であることも相まって低下してきている。感染症管理サイクルを提示しながら、緊急対応のステージにおける具体的な政策手段とその採用基準を市民に示しながら、その批判を受けて政策を修正する努力が必要だろう。

また、例えば、コロナ禍を克服したと言うためには、ワクチンだけでなく治療薬と検査薬まで開発されなければならないという声もある。製薬業界における投資が十分でなかったことが要因と言われることもあるが、行政が不確実性の高い研究開発の分野において、高い先見性を有しているという仮定を疑う必要があるのではないか。研究者への競争的資金の投入にも通ずる議論だが、「選択と集中」ではなく、「薄く広く」研究支援を行うための体制構築、雇用の確保、研究者への様々な支援を合わせて行う必要がある。

2021年夏、東京オリンピックが「コロナ禍を克服した証」となるのか、それとも新型コロナウィルスという鮫は今後も現れ続けるのか、現段階で予断を以て語ることは難しい。しかし、危機に立ち向かう手段とそれを採用するプロセスを改善しておくことは、いずれにしても重要だし欠くことができない要素だと思われる。

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