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災害研究者が新型コロナウィルス感染症について考えてみた(7)危機を認識すれば対処できるのか

1.流行、再び。

東京都でコロナウィルスの感染者数が徐々に増加してきている。

小池都知事からは、4月とは状況が異なり、PCR検査数が増えたことで検出数が増加しているという説明がなされているが、同時に感染経路が不明の比率も上昇しており、第二波の到来が懸念される事態になってきた。

また、他県においても徐々に感染者数が増えてきており、全国的な感染拡大の可能性も出てきている。

2.専門家の反応

これと前後して、専門家会議改め専門家分科会の委員からは、今後のPCR検査のあり方だけでなく、リアルタイムで政策の意思決定に反映できる信頼性の高い感染データの共有が重要であることが強調されている。

PCR検査の性質上、検査規模を拡大すればどうしても偽陽性と判定される患者が一定数出てしまう。それに伴って医療資源を相応に割り当てておく必要性が出てくる。ただ、それでも無症状かつ事前確率の低い患者に対して検査を実施し、市中の感染状況を把握する基礎データとすることを優先するべきなのか、国民的な議論しなくてはいけない時期に来ているとコメントしている。

新規感染者数の拡大に伴い、時々刻々と変化する感染状況を把握するために、透明な制度の下で客観的なデータを迅速に共有することの必要性は今まで以上に高まっている。さらに近年では、客観的なデータとその分析に基づいて政策対応を行うというEvidence Based Policy Making(EBPM)を志向するべきであるという主張が、社会科学の分野を中心に叫ばれており、政治の文脈でもこうした意見が聞かれるようになってきている。これは政策決定を行う際に、それに先立って社会・経済的なデータやその因果関係を吟味し、意図した効果を挙げるために適切な政策手段を事前に明らかにしておく必要があるという主張だ。EBPMに沿った政策対応を行う上では、基礎データのリアルタイムの収集は重要な作業と言える。

3.危機における状況判断の難しさ

ただ、災害時のような非常時において、客観的なデータ分析の結果を基に、適切な政策判断を行うことは、決して簡単なことではない。

第一に、災害時には被害状況が刻一刻と変化していくという性質があるため、政策提言に向けた詳細な分析を行うことが難しい。新型コロナウィルス感染症においても、新規感染者数、入院患者・重症患者数、PCR検査総数、空き病床数等といった基礎データは、日々、変化していく。さらには、感染の爆発的な拡大、外国からの入国制限を始めとする政府による政策変更、各自治体における個別の政策変更等、様々な環境変化が起きる。このようにリアルタイムに状況が変化する中で、特定の政策効果を抽出するために詳細なデータ分析を行うことは簡単ではない。

第二に、災害管理サイクルにおける緊急対応のステージにおいては、時間が希少なために政策決定に向けて十分な時間的余裕を持つことができないことがある。平時の政策決定におけるEBPMの重要性は理解できる。時間をかけて慎重にデータを吟味した上で、得られた分析結果を行政や市民の間で共有し意思決定に活かすことは、政策決定の質の向上だけでなく、政策決定過程の透明性向上の観点からも重要である。しかし、災害時のような緊急時においては、政策判断の基礎資料としてのデータの蓄積や分析が十分でない状況においても、眼前の危機に対して何らかの意思決定を行わなければならない場面が訪れる。こうした不確実性が高い環境下における現実的要請を考慮すれば、今後の災害状況の推移や政策効果が不透明な中でも、政策担当者の能力と経験と責任において意思決定を下すことができる余地を残しておくことも必要だろう。

4.危機を認識すれば対応できるのか

災害を前にして最も困難な課題は、果たして客観的なデータや分析を前にすれば、人々は適切な政策手段を選択できるのかという問題である。

こうした事例を考える上で、実はパニック映画は大いに参考になる。「事実は小説より奇なり」と言うが、パニック映画はその例外であることが少なくない。

ここで、古典的なパニック映画の名作「ジョーズ」の有名なシーンを幾つか振り返ってみよう。海の街アミティ島に突如として現れた人食い鮫により、海開きを前にした町は多くの犠牲者を出してしまう。鮫の被害で子供を失ったある母親は、鮫退治のために懸賞金をかける。かくして賞金を目当てに島外から多くの釣り人が殺到し、盛大な鮫狩りが行われることになった。

上段の映像は、鮫狩りの結果、巨大なイタチザメが捕獲された後のシーン。多くの人々が危機は去ったと喜び安堵している中で、リチャード・ドレイファスが演じる海洋研究所の研究員は、「百に一つだが、本当にこの鮫が犯人なのか確認したい。被害者の体に残っている鮫の口径と、釣り上げた鮫の口径が一致しない。」として、鮫の解体により胃袋の中身を確認することを提案する。市長は公衆の面前で、子供の遺体の一部が飛び出してくるような行為は行うべきではないと拒否する。その後、研究員とロイ・シャイダーが演じる警察署長は夜を待って鮫の解体を行うが、胃袋の中に犠牲者の身体がないことを発見する。この鮫ではなかったのだ。

中段の映像は、そうした調査を経て市長に改めて海開きを延期するよう要請するシーン。「海開きをすれば、鮫に格好の餌場を提供するようなものだ。危険すぎる。」必死に訴える二人に対して、市長はにべもなく答える。「(他にもっと大きな鮫がいるという)証拠の鮫の歯はどこにあるんだ?」二人は洋上で被害にあったボートを調査中に船体に食い込む鮫の歯を発見したが、事故でそれを失っていた。「アミティは海の街だ。証拠もなく、海開きを延期するなど私にはできない。」「それほど言うなら、自分で論文を書いてナショナル・ジオグラフィックにでも載せるんだな。」市長は、海開きの延期に理解を示さない。

最後の映像は、海開きの日に再び被害者が出るという恐れていた事態が発生した後、病院で市長と署長が対峙するシーン。憔悴しきった市長に対して、署長はプロの漁師を雇って鮫を捕獲するよう提案する。それでも煮え切らない市長に対して署長は強く返答を迫る。そして、市長は遂に告白する。「私の子供も、あの浜にいたんだ。」この台詞が、市長に抜本的な対応をとらせる決定打となった。

観客目線から言えば、現実を軽視し続けて適切な政策判断ができない愚かな市長のせいで、次々と被害者が生まれてしまう映画のようにも見える。しかし、市長も政治家である以上、様々なステークホルダーとの利害調整を行う立場にあるだろう。多様な支持団体からの声に配慮しようとすれば、経済活動よりも災害対応を優先することは簡単ではない。

例えば、劇中には海開きについて島民の声を聞く公聴会のシーンがある。

「署長、海開きは中止ですか?」市民から直截な質問が挙がる。「その通りです。」署長は海開きの延期決定を伝えるが、市民は大いに不満を表明し会議場は混乱する。こうした反応を見た市長は、「24時間だけですから。」と付け加えて市民の理解を得ようとする。「そんなこと、私は聞いていない。」署長は反論するが、その声よりも市民が騒ぐ声の方が大きいため、市長には伝わらない。

このシーンから、市長は政策決定において市民の理解を得ることが欠かせないと考えていた様子がうかがえる。市民の声に配慮した政策形成を行うこと自体は責められることではない。さらには、市長には選挙という現実的な課題をクリアする必要性もあっただろう。このシーンに登場している市民の多くは観光業で生計を立てている企業人と推測されるため、この市長は必ずしも幅広い市民の声を基に政策判断を行っているとは言えないかもしれない。しかし、市長にも選挙を勝ち抜くための支持基盤が必要であることを考えれば、人食い鮫の存在を正面から認めて果断な災害対応を行うよりも、経済活動に影響が出ない範囲で政策対応を行うという判断に傾くことも、有り得るのかもしれない。

なお劇中では、子供を失った母親が「あなたは(鮫の存在を)知っていたのに海開きを容認した。鮫を殺しても、私の子供は帰ってこない。」と署長を一喝するシーンがある。傷つく署長を前に、「ブロディ、君の判断が間違っていたわけではない。彼女の誤解だ。」とフォローする市長は、独断的で保身に走りがちな政治家には見えないと言えば言いすぎだろうか。

5.日常への回帰か、再度の自粛か

新規感染者数が再び増加している状況を受けて、政治のメッセージも明確になりつつある。西村コロナ担当大臣は記者会見で、再度の緊急事態宣言や休業要請の実施に対して否定的な態度を示した。また、菅官房長官も経済活動と感染症対策の両立が重要であると主張した。

平日の街の様子を見れば、多くの場面で日常への回帰が見られる。飲食店や小売店にも少しずつ賑わいが戻ってきており、店頭にアルコール除菌の薬を用意しないお店や、マスクをしない人の姿も見かけるようになった。人々の間で日常への回帰を容認する考えが広がっているかもしれない。だとすれば、現在の政府の対応もこうした声に配慮した結果なのだろう。

しかし、多様なステークホルダー間の利害調整を経て政治的妥協を行えば、果断な災害対応を行うことができない。このことは先に映画ジョーズでも見た通りだ。

政府は状況の推移を見つつ適切に判断すると主張しているが、そういう平時の発想も災害時には馴染まない。感染症対策を効果的に行う観点に立てば、事態が小さいうちに抜本的な対応を行うほうが望ましい。その方が感染収束までに要する期間も短く、経済的損失も少ない。また、災害管理サイクルを考えれば、緊急対応において迅速にウィルスを封じ込めることが、その後の復旧復興までの期間を短くし、速やかに経済活動の再生を図ると共に、新しい日常への移行をスムーズに行うための条件と言える。

結局、危機を先取りするような対応を行わないということは、事実上、一定程度の集団免疫の獲得を目指すことと同義である。そこで、そうした取組を進めている米国やブラジルの様子を見てみると、感染者と死亡者の拡大が止まらず、慎重な集団免疫政策に舵を切ったスウェーデンでも賛否が分かれている。集団免疫の方針を取ることで、今後、感染者の拡大と死亡率の上昇が見られれば、事態が一層深刻化するだけでなく、ウィルスの封じ込め事態が手に負えなくなる可能性もある。感染の第二波が第一波よりも小規模であるという思い込みには何の根拠もない。

6.専門家の役割とは?

行政の対応が定まらない中で、専門家の役割とはどうあるべきなのだろうか。感染の再拡大を前に、専門家会議からは専門家と政府の役割のあり方について、コメントが出された。新型コロナウィルス感染症に対する専門家会議のメンバーは、感染初期から積極的に情報を発信し、記者会見でも長時間の質疑応答に答える等、メディアへの露出も多かった。しかし、そうした中で専門家会議での決定が、事実上、政府の対応を決定しているかのような印象を持たれているとして、政府に政策の決定過程の透明化と市民への説明責任の所在を明らかにするよう求めている。

これは、専門家として事態の分析に集中させて欲しいという願いと、今回の新型感染症対策において踏み込んだ対応を行ったことが行き過ぎであった点に関する反省が表れているように思う。今後は専門家の分析結果を受けて、政府が政策決定の判断に責任を負うような位置づけを明確にしつつ、コロナ対応における政策形成について積極的な役割と責任を引き受けて欲しいという意見にも聞こえる。

しかし、今回の専門家会議の対応は本当に問題だったのだろうか?これまでにも様々な政策決定過程が不透明であった日本の行政において、災害時にそのギャップを埋めようと専門家が積極的に行動した結果、専門家会議が実質的な政策決定を行っているように見えたのではないだろうか。だとすれば、日本の行政機構に問題があるという所与の条件下で必死に専門家としての役割を表現しようとしたことは責められるべきことなのだろうか。また、政府と専門家の役割分担について、専門家側から積極的に線引きをしてしまうことは、政策決定過程の一般均衡メカニズムの中で専門家コミュニティの周辺だけで部分均衡を図ろうとする行為にも見える。しかし、そのことで政府による適切な政策決定を導き出すことができるのだろうか。

新型コロナウィルスの感染が収束しきっていない現状においては、専門家会議の行動を批判的に検証することと合わせて、積極的に肯定すべき発見を指摘することも重要ではないだろうか。ここでは、専門家会議の行動の中で肯定して良いのではないかと思う点を幾つか指摘しておきたい。なお以下は個人的な感想に基づいているため、内部から見れば事実と異なる点が多々あるのかもしれない。

第一に、新型コロナウィルス感染症という未知のリスクと格闘することを通じて、専門家は分野の縦割りを超えて現実への対応に向けた身のある議論を行うことができたのではないだろうか。今回のように専門家会議が過大な責任を引き受けるような事態が生じなければ、医療や公衆衛生の専門家の中から社会科学の専門家が必要だとするような提言も出てこなかっただろうし、積極的な記者会見やSNSでの情報発信を行う等、市民と双方向のリスクコミュニケーションを行うことの重要性が認知されることもなかっただろう。

1995年の阪神・淡路大震災の時にも同様の議論があった。都市型災害であった同災害ではマンション再建が重要な問題であった。このため、住民は建築士、弁護士、不動産鑑定士といった専門家と協議する必要に迫られた。しかし、実際は専門家がエキスパートして住民にアドバイスするよりも、むしろ専門家の方が災害復興という現実と格闘しつつ学びを深める機会であったという声が多く聞かれる。専門家達は自らの領域内で閉じた議論を行ってきたことに気付かされると共に、現実と格闘することで問題解決に向けて新しいテーマに触れる機会を得ることができた。そして、互いに学び合う過程を通じて住民との信頼関係を構築することが、意思決定やそのためのコミュニケーションにおいて決定的に重要であることを学んだ。

第二に、政府が誤った対応を行う可能性がある場合に、「机を叩いてでも」反論することができるアクターは、野党の政治家ではなく専門家であることも明らかになった。接触者の8割減を強固に主張した西浦教授については、その試算の正しさや根拠の提示の仕方に対して批判が高まっているが、真に重要なことは被害の試算が正しかったかどうかではなく、専門家が市民に対して強く訴えることで政策決定過程に影響を与えることができた点にある。行政が政治的妥協により曖昧な災害対応を進めようとする際に、専門家が政策対応の批評家に陥れば、政策の誤りを修正する機会は少なくなるだろう。米国やブラジルの大統領が繰り返し新型コロナウィルスの脅威を過小評価し続ける中にあっては、政治的利害の外から指摘を行うことができる専門家に一定の影響力があることは重要なように思われる。映画「ジョーズ」のリチャード・ドレイファスがそうであったように。

第三に、危機に際して行政や専門家の限界と市民が果たすべき役割が明らかになった。今回の新型コロナウィルス感染対策において、主要な役回りを演じたのは厚生労働省だろう。そして、こうした厚生労働省の動きは、既存の法律や制度の枠組みによって規定されていると考えられる。しかし、結果として、厚生労働省が設置した専門家会議の議論と政治による政策決定の関係は不明瞭であり、政策の実施においても様々な問題が噴出した。例えば、専門家会議や首相が指示を出しても、PCR検査数の増加に向けた動きは緩慢なままだった。既存の制度や社会構造を前提として専門家に危機対応を委ねることには限界があることが分かった。

かつて、「大災害と普通の災害を区別する基準は何か」という問いを発したある学者がいる。彼の答えは「新しい法律が施行される機会となったものは大災害、平時の法律を手直しして乗り切ったものは普通の災害」というものだった。現在の社会構造の手に負えないようなものを大災害と呼ぶのであれば、社会がそれに適応しようとした結果、今後同じ過ちを繰り返さないよう新しい法律や制度が構築されるはずである。この基準から言えば、阪神・淡路大震災は大災害ではなかったことになる。結果、市民の生活再建や地域社会の再生において、既存の制度の延長線上にある対応はなされたが、既存の枠組みを超えるような復興政策は容認されなかった。

つまり、危機は、専門家や実務家の能力や知見を試すだけではなく、制度やそれを支える社会構造そのものを試す機会となる。危機を認識して対処するためには、専門家の内々の議論を聞いた政治や行政にその役割を一義的に委ねるのではなく、幅広い専門家の議論を聞き、危機対応における政策決定過程とその政治的力学を見つめる中で、市民が自ら新しい制度や社会構造のあり方を模索しつつ、それを求めて声を挙げていくことが必要となる。

政府は7月22日からGo to キャンペーンを実施することに変化はないとしている。しかし、今後、新型コロナウィルスの感染状況がどのように変化するか予断を許さない。我々にはまだ、現状から学ぶべきことが多く残されているのではないか。

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