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優柔不断の「優しさ」と「柔らかさ」を大切にする。

ぼくの今年のテーマである。

といっても下も下な下半期の10月からテーマとなったため、
来年もしばらくは継続していきたい。
何が言いたいかというと
マイナスの中にあるプラスに目を向けていきたい、ということ。


ぼくは自他共に認める「優柔不断」だ。(知らんけど)
大学四年の11月に就活をやり直そうかとしているくらいなのだから、結構な優柔不断度合いであろうし。今までだって、決断を先延ばしに先延ばしにしてきた節がある。
そんな自分に今年、大きな変化が見られ始めた。
「自分のマイナスを認め始めた」
マイナスって例えば、弱さと弱点とかウィークポイントとか?
その1つが「優柔不断」。
決断力のない、男気のない人間だな〜と思って生きてきた。
だって怖くないですか?その決断が間違ってたら?
だから今までそうやって、
手には懐中電灯を握りしめ、一歩一歩慎重に、時折後ろを警戒しながら歩いてきたし、きっとこれからもそうしていく。
「認め始めた」と書いたけど、まだ全然「認める」には至っていない。
このままで大丈夫かなと不安はいつだってある。
けれど、先日読んだ記事で考えが120度くらい変わったのだ。
その記事とは、ぼくの好きな劇作家三浦直之さんの対談記事。

コチラ→北欧、暮らしの道具店【せつなさを考える】


「私は優柔不断だけど、優柔不断だという四字熟語の、優しさと柔らかさを大事にしているんです」

この言葉は今年観たロロの『はなればなれたち』という演劇の作中のセリフだ。

この記事を読んだ時
「自分にピッタリな言葉だ!(◎_◎;)」
と、数分後にはラインのひとことを「優柔不断」に変えていた。
「優しさ」と「柔らかさ」人からよくそのような評価を受ける。
その源が「優柔不断」から来ていたのだと感じた瞬間、
それまでの煩わしさが消え「優柔不断」が愛おしく思えた。


優柔不断の中にある優しさと柔らかさ
それはつまり、マイナスの中にあるプラス。


人に対してもきっと同じなのだろう。
「人の悪い部分は良く見える、良い部分を見れる人になりなさい」
小学生の時、先生に言われた言葉。今にしてスッとくるものがある。

マイナスの中にあるプラスを大切にする
その視点は、きっと自分と人を大切に出来るのだろう。


遅いことの豊かさ

記事の中で、筆者の大平一枝さんは
「遅いことの美しさ」と表現をしている。
SNSの発達で、膨大な言葉や情報がとてつもないスピードで流れていく、
メールやラインでも即レスが求められる、
数分の移動時間でさえ短くできないかと新たな電車が開発され、
コンピューターの情報処理速度を途方もない細かさで競い合う。
いつしか「速さ」ばかりを求めてはいないだろうか。
そのスピードは「考える」余地を奪っているのかもしれない。
例えば、ある残虐な事件が起きたとする。
となれば、SNSではあらゆる情報、憶測がされ
すぐにでもテレビではコメンテーターのコメントが流れる。
それを聞いた後の意見は、それらが無かった時の意見とは少なからず違いがあるのだろう。
あるいは、そのスピードに置いていかれまいと
「考える」過程を省略してしまっているかもしれない。
「遅い」からこそ「考える」。

きっと会話も同じ。

「遅いことの豊かさ」だとぼくは思う。

確か、ぼくは小学4年生まで「おしゃべり」な方だった。
それが故に、何も考えず発した言葉によって他人を傷つけた
1週間に3度このことで怒られるという稀有な体験をして以降、
ぼくは「おしゃべり」でなくなった。
今となっては、言葉が出てきにくくなったし
この言葉が相手にどのような影響を及ぼすかという考える過程を踏んでしか
言葉が出てこなくなった。
ぼくは言葉に臆病になった。
と同時に「考える」過程を手に入れたのだろう。

即レスを求められない会話が「豊か」なのだろう。
ぼくだって、未だに早く言葉が出てこない事に煩わしさを覚えるし、
だいぶマシにはなってきたし、感覚で話す練習もしているが
話す「遅さ」を認められる会話が一番話しやすい。
もはや話す事を強いられない会話が理想だろう。
考えることによって「話さない」という選択も有りだ思う。


「遅さ」を認める「豊かさ」つまりは
「マイナス」を認める「豊かさ」。


「優柔不断」の「優しさ」と「柔らかさ」を大切にする。
自分に対しても、他人に対しても、
大切にしていきたい。



まみや

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