見出し画像

孤独な肉体 歪な美しさ

人それぞれ美の基準は違う。私の妹は、かわいい。妹がひまわりなら、私はぺんぺん草ぐらい、違う。母方のおじいちゃんは美青年だった。突然変異だ。妹はその血を濃く受け継いだらしい。妹は二重瞼で、私は父と母の特徴を受け継いだ一重瞼だった。思春期真っ盛りの私に母が言った。二重瞼にしたいのなら、お金出してあげるよ。私は、自分の一重瞼に悲観するよりも、母のそういう私に対する劣等感が悲しくて惨めだった。私は自分の顔を嫌いなわけではなかったし、むしろ愛しいと思っていた。一重瞼で美しい人は当時よく読んでいた流行通信やVOGUE等の雑誌にモデルとして載っていたし、その切れ長な目の美しさは一種ジェンダーレスに濃く結びついているようで、私は自分が一重瞼でよかったとさえ思えた。世間ではこぞって二重瞼が美しい事の基準であるとされているけれど、どんな顔の持ち主でも、それは個人の固有物であり、個性である。それを否定してどうする?自分はブスなんだと悲観することで、ますます暗く落ち込んだ顔になり、性格も歪み、滲み出る気が醜くなってしまう。一重瞼でも、デブでも、自分に自信がある人は美しい。一方、二重瞼でも痩せていても、自分に対して何らかの劣等感や自信の無さが滲み出ている人は、お世辞にも美しいとは言えない。美しさって、本当に内面が関係しているんだと思う。そしてもちろん努力も。持って生まれた器量の悪さはある程度の努力でどうにかなるもんだと、私は思っている。努力なしでは世間一般に言われている美しいには近づけない。そしてもって生まれたものが良かったからと言って、その努力を怠ってしまうと、その美はいずれ衰えてしまう。


私はずぼらだと自分でも思う。三日坊主だし、新しい物事は好きなので気合を入れて買ってしまう美容製品や、かわいいアクセサリー、素敵な古着。買ってしまったのは良いものの、使われることなく棚に置きっぱなしにされたまま、忘れ去られる。だから最近は要もないのに古着屋にはいかない事にしているし、いらないもの、使わないものの整理が終わるまでどうしても必要なもの以外は買ってはいけないと決めている。決まりを作ると、ゲームみたいで楽しいし、うまくいく。三十を過ぎると、ずぼらだったのが拍車をかけて表面上に現れてくるから困ったもんだ。例えば、若い頃は何を食べても全く太らなかった。夜更かしをしても次の日は疲れてなかった。しかし最近では、食べると食べた分だけ太るし、太ってダイエットをするにも、全く体重は減らない。子供を産んだ後元々の体重に戻る事はなく、産んだ直後の体重と変わらない。姿見を買って気を引き締めてみるも、見るだけ。しかも細長い安ものなので、真ん中にへこみが出来てしまい実際よりも細く見えてしまうという悪夢のような姿見なのだ。ダイエットしなくても美しい姿に映してくれる鏡、ドラえもんがいないのにいるような代物だ。そしてアナログの体重計を買ったものの家のアパートは欠陥住宅なので床がゆがんでいて正確に測れないのだ。ダイエット、やるからには正確なデータが欲しいと、変なところできっちりしてしまいたい私は思うのだ。だからデジタルの体重計を買った。おまけにその体重計、体脂肪率、体水分率、骨密度、BMI値まで測れてしまう賢いやつなのだ。そして器具がそろったところで私のダイエットは始まった。前回脂肪燃焼スープダイエットをやってみたものの、一キロもやせず三日で放棄した。今回は年齢に合わせた、炭水化物を控えて筋トレをしたりウォーキングをする本格的な健康ダイエットだ。私は大食いではないと思うが、結構な量食べれる。連れと同じ量食べれる。若い頃食は細かったのだが、年をとるにつれ子供達の残した食べ物だとか、めったに食べれない日本食なんかに手を付けていたら、いつの間にか結構食べれるようになっていた。戦後の食糧難を過ごした母に育てられたので、もったいない、という感情が先走るのかもしれない。おばあちゃんはもっと、もったいない、という人だった。おじいちゃんに至るには、新しいものをため込んで自分は質素で古いものを使うという徹底ぶりだった。使い捨て、という感覚が今の人には当たり前だが、昔の人間には何かに使えるかもしれない、直して使えるかもしれない、という感覚が先に来るのだ。


かわいい妹も子供を二人産んで、そして三十代に突入した。たまにするメールのやり取りで体重の話になった。彼女も子供を産んでから、体重が元に戻りにくくなったそうで悩んでいた。そうなのだ、神様は一般人には平等に悩みを振り分けてくれているんだ。大抵の人間は三十を過ぎると、痩せにくくなる。だから私はそういうのに抗いたいのだ。スイッチが入ったと思った。美しくなくても、人は血の滲むような努力で美しく見せる事は出来る。それには明確な目標が必要だと思った。目標なき戦いは報われない。私は、ひょろひょろになりたいのだ。性別不明なくらいのひょろひょろになりたい。今の体はひょろひょろからは程遠い、たぷたぷだ。私はたぷたぷの人間は嫌いではない。ふくよかな女の人はむしろ好きだし、大きなおっぱいは包容力があって大好きだ。しかし自分がたぷたぷに留まることは我慢できないと思う。若い頃は太ももに脂肪がつきやすく、それが嫌でたまらなかったが、三十過ぎると二の腕に脂肪がつきやすくなる。プロレスラーか?!と思えるくらいに強くたくましい二の腕は私にとって気味の悪いものだ。私は痩せたいが筋肉を付けたいわけじゃない。筋肉モリモリの人間はなんか見せびらかしている感じがして、近付き難い。色々リサーチした結果、筋肉には二つ種類があって、私はモリモリにならない遅筋を鍛えればいいと知った。そしてウォーキングは外が暑いし日に焼けたくないので、ジムに通おうか検討してみたのだが通うときに日焼けするのが嫌なので、小さな足を乗せる台を利用して、好きな音楽を聴きながら30分間踏み台昇降運動を自宅のリビングですることに決めた。食べる量も元々食べていた量の炭水化物を半分にして残りはこんにゃくや白滝に変えて、カロリーオフをする企みだ。めんどくさいのが本当に嫌なのに、白滝やこんにゃくは今のところちゃんと続けている。食感が結構好きだからなのかもしれない。不規則な時間帯に仕事をしているので、前は仕事が午前二時に終わってその後、お腹空いたとか思って一食食べてしまっていた。それも意識してやめてみた。仕事帰りについ買ってしまっていたスターバックスのいちごフラペチーノもやめた。意識する事で、自分がどれだけ無駄に体重を増やして来ていたかが目に見えた。
そっち側に行きたいと思った。美しい人間は血の滲むような努力を人知れずしているもんなんだ。だから凄いと思うし、妬むよりも尊敬してしまう。私も血の滲むような努力でひょろひょろな体になりたい。線の美しい人間になりたい。ダフネちゃんみたいになりたい、アベフトシさんみたいになりたい。消えていなくなりそうな儚い体つきになりたい。


ダイエットを始めて一週間ほど経ったのだが、2キロ落ちて、その2キロはとても小さなものだけれど、前は一日気を抜けばすぐ元の体重に戻っていた。今回はずっとそのまま、緩やかに明らかに減っている。三十代のダイエットは如何に運動が必要なのか思い知る。自分としては平均体重のちょっと下であることが健康にも良いような気がするので、あと3キロほど痩せれたら、それを維持していこうと思う。(ひょろひょろには憧れるが、健康であることはやはり大切なので、過度なダイエットはお勧めしません。あとおいしいものやお菓子が大好きなので、無理な食事制限はストレスになって精神的にも悪いと思う。というか本格的にダイエットしなくちゃいけないのはもうすぐ40になる連れの方だと思う。すいかの詰まっていそうな腹が魅力的じゃないし、新しいデジタル体重計で計ったらすべて肥満だった。おい、死ぬな、死ぬなよ。)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?