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文豪のぞきシリーズ・川端康成

 文豪のぞきシリーズ第一弾は、川端康成、伊豆の踊子です。

 私は若い時、全くといって良いほど名作とか文豪の作品を読まなかった。母が読めと勧めてくれて、家にはそういう名作とか歴史小説が所狭しと本棚に詰め込まれ並んでいたのだが、私の興味は別のところにあって、そういう小説を敬遠してきた。

 唯一若い頃に読んだ文豪の本は、ジェーン・グレイに興味を持っていたころに探し出した、夏目漱石の倫敦塔と、家にあって読んでみたら面白くなって止まらなくなった谷崎潤一郎の、痴人の愛くらいだ。

 しかし、もったいない事をしたような気がして、三十を過ぎてから青空文庫なんかでちびちび読んでみると、意外に面白くて精神的な描写とか、自分の事を読んでいる気分になる作品もちらほらあって、損をした気分になった。もっと早く読んでおけば、色々な事に悩まずに済んだのかもしれない、と。

 何も知らずに見たオーストラリアの映画、スリーピングビューティーはぞくぞくするほどいやらしく、エロティックで、美しく、それが川端康成の「眠れる美女」を基にしていると知って、川端康成の本を一冊買った。伊豆の踊子である。すごく有名で、何度も映画化されていて、40ページほどの短い話なのだが、読もうとすれば、なかなか頭に入ってこないのだ。それでも読んでいくと、なんだかつらくなってくる。有名な作品は、もう定着されたイメージというものがあって、読むとそのイメージと違ったことが書いてある。これは恋愛ものではないのか。何なんだ?訳が分からなくなってくる。これは淡い恋の物語ではあるが、まさしく純粋さとか、親しみ、もどかしさという類の物語のようだ。

 川端康成は、幼いころに両親を相次いで亡くし、祖母、姉、そして16歳になるころ最後の近い肉親である祖父を失い、最後は自らの命を絶つという、死にとりつかれていたような人間だ。私はまだ彼の作品をすべて読んだわけではないので、あまり知ったかぶりはできないが、死にとりつかれていたからこそ、人間の温かさやさびしさを細かく描写し、醜いものを美しく表現できたのではないかと思う。

 彼は病床の祖父を看取るのだが、死に行く人間を看るという、孤独で、せつない日常を私も経験している。当事者であるのに、常に傍観者なのだ。そのじわじわと迫り来る、近くにいる人間の死を看るというのは、現実感さえどこかへ遠ざける。死に行く人間を見て、まだ大丈夫なはずだ、というどこから湧いてくるのか良く解らない期待を常に買いかぶる自分がいる。大丈夫なはずはないのに、大丈夫と思っている自分、それを遠くで眺めている自分。まだ大丈夫、きっと助かる、きっと手術が成功して、大丈夫なはずだ。それはまだ受け入れ態勢が整っていない、心の否定の表れで、現実をみることを恐れているが故の行動だろうか。そして、大丈夫と思っているはずの心の傍らにある、解放されたいという、悲痛な叫び。死なないで欲しいと、死んでくれが交差する不気味な心内。だから、傍観者になるのだろうか?現実逃避、これは私の感情ではない、と。

 さて、話を伊豆の踊子に戻そう。これは小説だが、川端康成自身の体験を基にしているという。私も趣味で小説を書いているが、やはり事実をもとにした話は書きやすいし、現実味を帯びる。体験していない事を書くと、どこか薄っぺらさがでてしまう。説得力がなくなってしまう。

 この作品には随所に興味深い人間の恥ずかしい欲求がちりばめられている。まず冒頭で、”私”は踊子をストーキングしているのだ。旅に出て4日目。偶然出会った旅芸人の一行の中にいた踊子が気になってしまい、また会いたい一心で追いかけて、偶然を装い、まんまと一緒に旅をするのだ。その執念深いようでありながら、さらりとそういう方向へ持っていけるのは、やはり時代のせいだろうか?今の時代そんなことをしようものなら、変な顔をされて、取り合ってもらえないだろう。しかし例外はある。海外旅行だ。日本人の少ない場所で、同じ日本人に会えたなら、大抵の人間は心を許すのではないだろうか?私も何度か、見ず知らずの日本人と故郷の話に花を咲かせるという出来事があった。一人の人間とは、同性だったが同じベッドを共有した。

 そして本題の、のぞきである。淡い恋のような独占的な感情を踊子に抱いた”私”は、夜宴会場で繰り広げられる芸人たちの騒ぎに聞き耳を立てて、悶々とするのだ。聞き耳から始まり、意中の踊子が奏でる太鼓の音を聞き、その音が聞こえる間はほっとし、その音が聞こえなくなると、たまらなくなり、沈み込んでしまうのだ。そして目を凝らし、静かな暗闇の中何が起きているのかを確かめようとするのだ。

”踊子の今夜が汚れるのであろうかと悩ましかった”

 そういうやり場のない変な所有欲に似た何かを感じとる、それは怒りとも悲しみとも違う、失望であろうか?そういう、もやもやするやるせない心うちを解消するかのように、意味もなく何度も風呂へ入ったり、夜中過ぎても眠れずにいるのだ。しかし翌日、踊子が共同湯の湯気の中から恥じらいもなく裸でこっちにかけてくるのである。”子供なんだ。私達を見つけた喜びで真裸のまま日の光の中に飛び出し、爪先で背一ぱいに伸び上る程に子供なんだ。”そう思い安心するのだ。十七、八と思っていた少女は実は十四で、”私”はとんでもない思い違いをしていた事を知る、のだ。思い違いもいいが、ここまで読んできたのに、思い違いで済まされると思うなよ!

 では、これは、淡い恋心ではなく、なんなんだ?”私”が踊り子に抱いていた感情は何なんだ?私のほうが、今度は悶々としてきてしまったじゃないか。私の持っている伊豆の踊子は、新潮社のもので、最後に竹西寛子と、三島由紀夫の解説がついていた。それを読んだのだが、まだしっくりこなかった。竹西さんは、伊豆の踊子を”人生初期のこの世との和解”と書いてある。”縁”を自然に受け入れることだと。親切を拒まず受け入れることにより、人間らしくなれるのだ、と。そして、三島さんは「処女性」について色々のべておるが、それもやはりしっくりくるものではない気がした。”処女を犯した男は、決して処女について知ることはできない。処女を犯さない男も、処女について十分に知ることはできない。”全く意味不明である。”私”が女と思っていた踊子が子供と分かったとたん、処女性はもう関係の無い事になっている気がしてならない。

 では、なぜ子供だと分かった途端ほっとしたのであろうか?まだ汚されていない事に対しての安心感だろうか?それとも単に、踊子が大人の女でなかった事へ対しての安堵だったのか?

 川端はこの物語の背景である当時、”中学時代の後輩で同性愛的愛情を持っていた小笠原義人と文通が続いていたことと、草稿『湯ヶ島での思ひ出』での踊子の記述が、清野少年(小笠原義人)の「序曲」的なものになっていることから、『伊豆の踊子』での「踊子」像には小笠原少年の心象が「陰画」的に投影されている”としている、と洋画家の林武が書いてある。彼は、”事実、川端は多くの作品で、少女あるいはそれに近い女に少年のイメージを探し求めている。それ故、清野少年の俤を心に抱く川端が、大正七年の伊豆での初旅の途中、実在の踊り子に清野少年のイメージを探し求め、大正十一年の「湯ヶ島での思ひ出」執筆時に、清野少年登場の序曲的存在としての踊り子の部分において、「踊子」に清野少年のイメージをオーバーラップさせていたとしても不思議ではない。即ち、両性混入による「踊子」の一方からの中性化である。”とも書いてある。

 そういう背景を知ることで、初めてこの伊豆の踊子は理解できるのだ。ああ、これは男でも女でもないまだ無垢な人間に対しての純粋な親しみとか、そういう類の感情で、性的なことは一切ない。性的なことは一切ないが、決して実ることのない恋でもある。恋は恋のまま終わるのだから、純潔が保たれる。もしくは、終わりのない恋なのかもしれない。そういう瑞々しさの中で、様々な人との触れ合いを通して変わっていった心内。

 物語の終盤、また奇妙な場面に出くわしても、ああ、これはこういうことか、と納得できるのだ。だって、見ず知らずの少年に海苔巻きもらって、マントの中で温めてもらうのは、どう考えたって不自然すぎる、でも美しい。私も、見ず知らずのハワイから来た女の子と、同じ長距離バスで隣同士になって海苔巻きもらったことがあるが、マントの中で温めてはもらえなかった。

 解説の中で、”別れの場面の〈私〉の涙は「感傷」ではなくて、それまであった「過剰な自意識」が吹き払われた表われであり、それゆえに〈私〉が、少年の親切を自然に受け入れ、融け合って感じるような経験を、読者もまた共有できうると考察している”、と竹西さんが書いているが、物語の中で”私”が「過剰な自意識」を振りまいている事があっただろうか?どこら辺からが、「過剰な自意識」なのだろうか?年上の男性に金をあげるところか?冒頭で、踊子にありがとうが言えなかったところか?中風の爺さんを見て棒立ちになった時か?茶屋のばあさんにあげた50銭銀貨なのか?50銭銀貨とはいったいどれくらいの価値だったのだろうか?信憑性はないが、今でいう5000円ほどの価値があったらしいので、金をやりすぎだということが、「過剰な自意識」なのだろうか?金が底をついてきたので、故郷に帰ることが「過剰な自意識」なのか?この物語の中で”私”は驚くような「過剰な自意識」を持っているとは思えないのだが、それは私が現代人だからなのか?それとも、私がとてつもなく自意識過剰な人間だからなのか?

 出立の朝、踊子の兄である栄吉が見送りついでに、敷島というタバコを4箱、柿、そしてカオールという仁丹のような口内清涼剤を買ってくれるのだが、「妹の名前が薫ですから」という粋な計らいである。そして”私”も栄吉に鳥打帽をかぶせてあげるのだが、そういうやり取りがなぜかくすぐったい。

 ”私”が旅に出た理由は、”自分の性質が孤児根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に耐えきれなかった”、からだ。それを、踊子は「いい人ね」と言い、”私”も自分自身をいい人だと素直に思えるまでになった。自分自身に息苦しさを感じているうちは、他人を慈しむことはできない。自分を受け入れ、愛すことで、初めて本当に他人を受け入れ、愛すことができるのだ。そういう意味で、この旅は、”私”にとって、とてつもなく良いものであって、最後には人との別れに涙するまでに成長できたといえよう。”私”は人間の温かさ、親切心を躊躇せず、構えず受け入れるという事を学んだわけだが、現実逃避や憂鬱からは解放されたのだろうか?

”真暗ななかで少年の体温に温まりながら、私は涙を出委せにしていた。頭が澄んだ水になってしまっていて、それがぽろぽろ零れ、その後には何も残らないような甘い快さだった。”

*のぞきと関係ないことばかり書いてしまいました。ごめんなさい。だけど、小説を読むという事は即ち、他人の妄想や空想、体験をのぞき見しているという事に繋がるので、許して。

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