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【母娘の対話】母の人生に流れる意味。そして、私へのつながり。

私は長いこと母との関係が上手く行っていなかった。まあよくある期待をかけられた"優秀な"長女と母親の関係である。娘を連れて出戻り、母私娘の女性三代で生活する中、ことごとくぶつかって、理解し合える日など到底来ないのではないか、と思っていた。

それがどうだろう、昨年「対話」というものに深く出会ってから、少しずつ関係性が変わり始めた。対話によって「自分を生き切る」ことを決意し、私が仕事を手放した後から、急速に変化が訪れる。そして、まさに今朝、ふとした朝の会話から対話が生まれ、とうとう母の人生に流れる意味を全身で理解し、自分とのつながりを感じて、涙が止まらない状態に至ったのだった。

母も私も同じだった

母は城下町のある埼玉県の行田に生まれた。行田には丸墓山という古墳がある。小学生だった母は、この山に登って行田の市街地を見る度に、「ここに市井の人の生活がある。私はこの人たちがよりよく生きるために力になれる人でありたい。」そんなことを思ったそうだ。

私はと言えば、小学校の頃に、ジャングルジムの片隅でこんなことを思っていた。「いい高校、いい大学を出て、安定した会社に勤めて、結婚して家庭を築く」それが”一般的な幸せ"であるともう証明されているなら、私がそれをする必要はない、自分のやり方で「幸せ」を確かめてやる、と。今にして思えば、それは「自分にとっての真実」を自分で見極めたいということだったと思う。

子供の頃、やや気違い沙汰、誇大妄想的な考えを2人とも持っていたこと、見えないものを追い求めようとしていることは、どうも同じだったようだ。

母の人生を変えた3人の女性①斎藤公子〜生きる力をくれた人〜

斎藤公子は、裸足教育で革命的な保育園を作った人で、偶然、母の嫁ぎ先(私の実家)である埼玉県深谷市に「さくら・さくらんぼ保育園」を思いのある親たちと共に作っていた。

母は天真爛漫なタイプで、優しい父親を高校時代に亡くしたものの、明るく、運動も学業成績もよく、誰にも否定されずにスクスク成長していた。それが、色んな縁が重なり、もうすぐで大学を卒業しようとする2月に私の父と結婚し、深谷にやって来た。

ここで、これまでの母の生活が一変する。男が優しい家庭から、江戸時代か?と思うほど亭主関白傾向の強い家に入り、姑も母の肩を持つどころか、批判的な態度をとっていたようで(私には大層優しい祖母だったが)、彼女からすると、まさに四面楚歌の状態になってしまっていた。

自分の全てが否定される毎日がそこにはあり、自信を喪失。子育てと当時は手広かった家業(菓子屋、レストラン、ガソリンスタンド)で疲れ切った生活の中、生きる意味を失って、車を運転しながら、ここままどこかに突っ込んでしまえば、どんなに楽になるだろうと思ったそうだ。知らなかったが、心を病み、通院して薬を飲んだこともあったという。

そんな折、母もマダムとして手伝っていたフランス料理店に北海道や東京、九州など全国から客が来るようなる。みんなが「斎藤公子」のことを口にしていたのが気になり、1人の客に誰かと聞いたところ、革命的な保育園を運営しているとのこと。共産党色が強いと深谷の地元の人は関心がなかったが、全国の教育に思いが強い親たちが、引っ越してまで子供を入れようと思う保育園だった。

母はその斎藤先生を当時担っていたPTAの講演会に招んだ。共産党というレッテルで地元では毛嫌いされていたけれど、「これが真実だ」と思ったら、母は臆せず進む勇気があるようで、斎藤先生も驚かせた。これに縁を得て、母は「さくら・さくらんぼ保育園」を見学に行く。そこには2000坪の広い園庭があり、夕日に照らされながら、子供たちが裸足で駆け回って遊んでいた。その光景を見て、子供時代のただただ幸せだった時がぱあっと全身に蘇り、生きる気力が立ち戻って来た。「そうだ、いつか私もこの人のように、人にエネルギーを与える人になるんだ。」母はそう胸に誓ったそうだ。

母の人生を変えた3人の女性②保母おばあちゃん〜心に安らぎをくれた人〜

斎藤公子によって、生きるエネルギーを得た母だったが、嫁ぎ先での苦労は相変わらず絶えなかった。そんな中、出身地である行田の知り合いを通して、保母おばあちゃん(と私たちは呼んでいた)を紹介される。

保母おばあちゃんは、横浜の出身で、牧師で医者の息子の赴任先について、田舎町である深谷にやって来たばかりだった。明るい性格で、知的な会話も楽しめる母は、保母おばあちゃんには格好の話し相手だったらしい。母も嫁ぎ先で苦しくなると、保母おばあちゃんを訪ねては、心のうちを吐き出し、安らぎをもらっていた。

仏壇のあるうちで生まれた母がクリスチャンになったのは、この保母おばあちゃんに教会に連れられて行ったのがきっかけである。母が生き抜くことができたのも、保母おばあちゃんを通してキリスト教という新たな支えを与えられたからでもあった。後年、母がクリスチャンになることに一番懐疑的であった私の弟が牧師になる。そう、既に、流れはここから始まっていたのだ。

母の人生を変えた3人の女性③渋澤多歌子〜生きる道をくれた人〜

今の母の仕事(乳酸菌販売)を始めるきっかけになったのは、今大河ドラマで話題の深谷の偉人渋沢栄一の一族で、渋沢国際学園の創始者である渋澤多歌子だった。

母と彼女との出会いもまた不思議なもの。私の父方の祖父栄次は、エネルギッシュで思ったことを行動にする人で、美味しい鯉が食べたいと家に水槽を作ったり、山を借りて食用に鳥を飼ったり、なぜか父を餃子の修行に台湾に送り込むなど、常識ではブレーキがかかるようなことをやってしまう人(と書きながら、自分との共通点を感じる)である。その祖父が突如として、郷土の偉人渋沢栄一に因んだ菓子を作ると言い出し、渋沢一族の許可をもらった方がいいだろうということで、新聞で見た渋沢多歌子(当時深谷に渋沢国際学園を建設中)にコンタクトを試みた。ちょうど軽井沢の別荘で静養中の彼女の元に送り込まれたのが母だった。

そこから母と渋沢多歌子の付き合いが始まる。母はどうにもエネルギーが強い人間で、外から来る人は、母を見て深谷と言ういまいちパッとしない田舎町にはもったいないという気になるらしい。多歌子もその1人で、母をなんとかしようと、自然派化粧品の販売の仕事を持ってきた。渋沢国際学園は外国人の留学生に日本語を教える場所であったが、アルバイトの必要な留学生の定着を目指して、多歌子がT先生と組んで、自然派化粧品の製造を始めていたのだった。当時、私の家は深谷駅前に3階建てのビルを持っていて、1階が洋菓子、2階がフランス料理、そして3階を少し改造して、化粧品を試せる場所にしていたことを覚えている。

販売を引き受けた母とT先生は行動を共にすることも増え、ある日、東京で開かれるトータルヘルスに関わる会合へ出席することになった。深谷駅前の小さなホテルで2人でコーヒーを飲んで打ち合わせをしていると、特徴的な風貌の男性を目にした。深谷駅に移ると、なんとその場所にも先ほどの男性いる。そして、驚いたことに東京の会合の会場に彼がいるではないか。

話をしてみると、その人(M)は同じ深谷の出て、出身大学も母と同じ立教と共通点も多い。Mは製薬会社のMRで、引き抜かれて新しく始まる乳酸菌食品会社の営業部長になるとのことだった。これをきっかけに、T先生とMの行き来が始まり、肌の健康と腸内環境の連関から、T先生は乳酸菌販売に着することになった。母の乳酸菌との出会いである。

最初は健康食品に関して、胡散臭い思いを抱いていた母だったが、この乳酸菌が昭和天皇のために乳酸菌飲料を開発したその道のパイオニアである風間美佐雄博士の手掛けたものであること、その風間博士の薫陶を受けた光岡知足博士の論文に偶然出会ったこと、実際乳酸菌を摂取した人に変化が見られたことから、これが本当に良いものであることを確信する。

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そこからの母は、信じられないような馬力を出す。自身が急性膵炎になったり、腰を痛めた時は、いい実験材料と乳酸菌を大量に摂取し自分の変化を観察したり、体調不良に悩む人の相談に乗っては、共に色んな方法を試し、乳酸菌、腸内細菌の力を実地で体感することを始めた。当時は、今ほど腸活・腸内細菌の認知はなかったから、ある意味、気違い沙汰だった。当然のことながら、亭主関白である私の父はいい顔をせず、仕事を続けるなら、生活費も含め、一文たりとも母に渡さないと言ったらしい。

信じることを突き進むと言っても、最初からうまくいくわけではない。貯金をはたき、株を売り、持っているものを処分して行って、母の手元には何もなくなった。「ああ、もう私には何も残っていない。どうしよう。」そう思った頃、不思議と顧客が増え、経済的に回るようになって行った。実は、私たち3人兄弟の学費も全部母が出したらしかった。

大きな意味の流れの中にある

乳酸菌の素晴らしさを確信している母は、誰でも彼でも乳酸菌の話をする。私の友達を家に連れてきても、乳酸菌の話になってしまうから、若い頃、いや、つい最近まではそのことが嫌で仕方がなかった。

しかし、今、私は「対話」が世界を変えると確信して、誰かれ構わず「対話」の話をし、自分が運営している対話のプログラムの参加をあちこちで呼びかけている。「こんなことを言ったら、引かれるかもしれない、嫌われるかもしれない」そんな思いを抱きつつも、それでも今相手に必要だと思えば、誘っている自分を見て、「これは、母の乳酸菌と同じではないか」と笑ってしまった。

母が乳酸菌に出会ったのも、私が対話に出会ったのも、そうしたいと願ったわけではなく、色んな縁のつながりから、もたらされたもの。どのピースがかけても成立しなかっただろう大きな意味の流れの中にこれがあると確信されて、乳酸菌も対話も間違いない、このまま行って大丈夫だという声が聞こえてきた。

共にこの世界を創る仲間である

対話を通して、再び母に出会い直し、私と母が小学生の時に、時空を超えて感じていた共通点のある思いを感じた時、私は母のことを「共に世界を創る仲間である」と見ることができるようになった。

実は、私は首席で入った地元の進学校を中退しているが、退学したいと話をした時、家族の中で唯一母が「あなたなら大丈夫だから、退学していい。自分でやれる。」とあっさり背中を押してくれた。「信頼された」そのことがどんなにその後の私を支えたことか。その確信に満ちた母はしばらく鳴りを潜めていたが、今回私が全ての仕事を手放し未知なる領域に足を踏み入れ、不安を抱えながらもエッジに立とうとした時、「あなたは形にならないものを目指しているのだから、辛くて当然だろうけど、あなたなら大丈夫だから、そのまま行け」と言ってくれた。高校を中退した時のあの母が戻ってきた。

もう、大丈夫。母から私につながり、そしてきっと私の娘につながる大きな意味の流れを見た時、全てはあるようにあることを感じられたのだった。そして、その意味を立ち現してくれた対話の力はやはりすごいと確信する。私たち人間が「言葉」を持つ意味もきっとそこにある。

追記(2021.4.21)


思いの外たくさんの共感をもらった。それだけ母娘は大きなテーマだし、だからこそ、希望を伝えたくて書いたのだ。しかし、身内から記述の内容が母の声に偏っているのではないかという趣旨の声が上がった。確かにそうだろう。これはあくまで母の人生に通る意味の話であるから、母の視点を描くしかない。母の体験が意味を作りだし、その先に人生が紡がれるからだ。しかも、言葉にするということは部分を切りとるしかなく、完全であることは決してないのだ。母が自分の命を生かすものに出会った物語を書くとこうなったが、別の側面に光を当てれば、祖父と母が過ごした素晴らしい時間や、母が父に敬意を持っていた姿が立ち上がる。言葉とは不自由なものだと改めて思う。全てを書ききることはできない。

恐らく不快な思いを抱く結果になってしまったことに申し訳なさを感じつつも、母が体験したことをそのまま受け取らなければ、母のその時の人生は見なかったことにされてしまう。だから彼女は苦しんだ。真実は1つではなく、1人1人に真実の物語がある。祖父には祖父の、祖母には祖母の、父には父のストーリーがあるだろう。そして、それは大抵自分の中に隠されてしまっている。立場によって、外に放たれる言葉が制限されるからだ。それが多くの軋轢を生むきっかけになると思っている。しかし、もし、その1人1人の声を聞いたら、その重なりの中に新しい真実が立ち現れるのではないか。だって、本来つながっているのだから。私はそこに対話の可能性を感じている。新しい現在とそれに続く未来を共に創るために。みんなに愛があるから。

自分の言葉を出すことで、何が返ってくるかはわからない。私も当然痛みを感じたが、自分が出した言葉へのインパクトを受け取った上で、この追記を書くことができたことを、とてもありがたく思っている。心から感謝です。

そして、これからも私は形にしたいことを言葉にし続けるのだろう。そこに怖さがありつつも。それでいいんだ。そこに伝えたいことがあるなら、怖くても出す一歩が必要な時がある。





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