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自分を生きることこそが、世界との対話〜多様な声の中に世界が立ち現れる〜

先日、行きつけの古民家カフェ、Cafetero葉山の「ぼくが性別『ゼロ』に戻るとき〜空と木の実の9年間」上映会&トークショーに参加した。

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LGBTを扱った作品であるけれど、あくまでこれが間口であって、「1人1人が自分を生きる」ことを扱った映画だと感じる。主人公の勇気があり率直な生き方を見ながら、「さあ、お前はどう生きる?」という問いを投げかけられている気がして、胸に迫るものがあった。

自分を生きることで、応えてくれる世界がある

主人公の小林空雅(まさたか)は、戸籍上は女性として生まれ、活発な女の子として成長しながら、小学生の頃から、自分の性に違和感を感じていた。中学生に入るとセーラー服が嫌で登校拒否、14歳で学ランを来ての登校が認められ、高校時代は最初からカミングアウトして通うことになる。

母親の美由起さんが、全面的に理解を示していることも大きな影響を与えていると思うが、性同一性障害という診断にホッとし、隠さず生きることを決断して行く強さ、勇気はこの人のものだなあ、と思う。

映画の中では、カミングアウトした上で、仲良くなった仲間との関わりが写されていたけれど、それは本当に「空雅を空雅という1人の人として見る」上でのつながりであることが感じられた。果たして私たちにそんな仲間が何人いるだろうか?

そして、アルバイト先との出会い。性別適合手術費用を稼ぐために働き口を探すものの、性別欄を空欄にしたためか、数十通送ったものの返信があったのは1通のみ。でも、その雇用主は空雅のことを理解した上で、雇ってくれ、またそれがきっかけで次のアルバイト先を自分を変えないで掴むことができた。これまで私は履歴書を出すとき、自分のままを出すことをしただろうか?相手が望むであろうと想定した自分の切り出し方はしなかったか?

空雅は、自分であることを貫くことで、「1人の人として関わる」仲間を得ることができた。自分を隠していれば、その「隠した自分」での関わりしか生まれない。そういう仲間が欲しいのか?さあ、私はどうだろう?

空雅の違和感は、実はみんなの違和感である

空雅は成長の過程で、性別に違和感をもった。履歴書や戸籍に記される性別は、「男性」「女性」の2択しかない。そして、それに付随して、役割、立場、服装、立ち居振る舞い、全てがジャッジされる。しかし、そもそもそんな2択にすっぽりハマることなんてあるのだろうか。

私は子供の頃から活発で、言葉遣いも割と”男っぽく”、大学生の頃クラブ通いをしていた時こそミニスカートにハイヒールだったけれど、今はスカートなんか履かないし、仲間からはよく性別を感じず、中性的だと言われる。確かに子供を産んではいるけれど、殊更に自分を「女だ」と思って意識して生きているわけではない。女というか「まみーた」なんである。

人によって濃淡はあるのだろうけれど、社会的な「性別」の枠で括られることは、全ての人に何らかの違和感を与えているはずだと思う(さあ、ここで皆さん、目をつぶって、呼吸をして自分の感じ方を振り返ってみて)。

私の仲間に小埜功貴という人がいるけれど、彼は男性学とジャニーズ研究の文脈で、若年男性の生きづらさについて書いている。ジャニーズ好きな男の子はあまり前に出てこない。そこには、いわゆる「男らしさ」にそぐわないものに対する社会的なジャッジメントがある。

また、別の仲間と女性の集合意識について対話をしているけれど、「女性」という括りの中で、会社内での立ち位置を何となく強要される雰囲気があることや、結婚や子供を生むことに対しての社会の目に対する苦しさが声に出されもする。

だから、「男だ」「女だ」と括られることに対する違和感は、空雅やLGBTと言われる人のものではない、私たちみんなのものである。ただ、それを彼らは、その感性の豊かさと勇気で持って、私たちに示してくれているだけだ。むしろ、社会的な区別で断片化されることに苦しむ私たちの代弁者だ。

自分に立ち戻る旅〜やってみて、感じてみなけりゃわからない〜

16歳。男性ホルモンを打ち始め、声が低くなる。
18歳。胸を切除する手術を受ける。
20歳。子宮と卵巣を切除する性別適合手術を受ける。
「なんで手術したいかって…だってみんなは将来いろいろしたいことあるだろうけど、ゼロからプラスに行くわけだけど、いま自分はマイナスにいるから、プラスに行くにはまずゼロに戻らなきゃいけないなと。」

空雅は、性の不一致を解消するために、ホルモン治療や手術を受け、戸籍も男性へと変えた。それでハッピーエンドかと思いきや、この話にはまだまだ続きがある。

男性・女性という2つしかない性に違和感を感じる中島潤という人に出会って、また新しい扉が開けた。潤は性別が性を超えるアイデンティティを模索し「Xジェンダー(性別なし)」を世界に投げかけている。その在り様が戸籍上男性になったものの、実は「男性でもない」自分に気づいた空雅に響いた。

性別適合手術まで受け、一生ホルモン治療を続ける体になりながら、結局「男性でもなかった」なんて、なんてことなんだ!やる前にわからなかったのか?という声が聞こえてきそうな気がする。でも、やってみて、感じてみて初めてわかることがある。そもそも、私たちは生まれた時から、「男」「女」と区分けされて、自分でそれを感じてみる機会、自分のまっさらな目で世界を見る機会がなかったのだから、やってみて、感じてみなけりゃわからなかろう。やったことに後悔はない、もう一度人生があっても同じことをしただろうという空雅の言葉に象徴されると思う。

多様な声を聞くことで既にある、でも見えない世界が立ち現れる

映画の後のトークショーで「知る」こと「学ぶ」ことの大切さについての話があった。私はこの「知る」ということは何かの知識を表しているものだと捉えない。実現を待たれている世界をたち現す多様な声は、もう既に1人1人の中にあるから、ただそれに耳を傾けさえすればいい。いや、むしろそれができていないからこそ、世界があらぬ方向にずれて行く。

自分が「男であること」「女であること」の私たちの苦しさや違和感、空雅の感じ方、潤の声、映画にも出演され78歳になって女性になった八代みゆき。みんなの声をなかったことにしないで、外に出すだけで、自ずと必要な世界が立ち現れるはずだ。

自分を生きることが世界との対話、そして共に出たがっている世界を立ち現そう

私は、対話というのは、世界に対して自分自身の湧き上がる言葉を投げかけ、出たがっているものを形に現すものだと思っている。そして、空雅が、潤が、みゆきが自分を生きることで、見えない世界を見せてくれるように、私たち1人1人も自分を生きることで、出たがっている世界を現して行こう。

どういう世界がいいかなどという青写真は描けない、目標なんて立てられない。なぜか?出たがっている世界は、私たちの想像を遥かに超える素晴らしいものだから、自分の想定で小さくすることはない。ただただ、自分の内側にあるものとつながって表現していくこと、その先に、誰もが驚くような世界がきっと待っている。その源泉は私たちの中にこそあるから、私たちには、それを外に向かって出して行く責任がある。Responsibility(責任)はResponse(応答)していくこと、世界と対話して生きて行くことだ、と思う。

さあ、あなたは、私はどう生きる?

あとがき

この映画を見る途中、私は少しでも医療の知識のある人間として、一生ホルモン治療を続けて行くこと、その苦しさを思うと「なんてこと何だろう」「何とかできなかったのか」という思いが出てきた。しかし、最後まで映画と対話する中で、気持ちに変化が現れた。「自分を生きる」ことの切実さ、世界に対して投げかけてくれるものの大きさからしたら、それは小さなことなのかもしれない。ジャッジメントなく、起こっていることを見ること、そこからしか世界は始まらない。


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