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登り方ひとつで世界が全く変わる山登り〜高尾山編〜

北アルプスの麓に住んで以来、山の魅力に目覚め、今年は山登りを趣味にしてみようかと思い始めたこの頃。でも初心者の私にとって近所の山は本格ガチ登山者向けが多く気軽に行けない。しかも今は雪山になっとるし…!

そんななか、高尾山に精通する先達と節分という最高のタイミングに登れる企画が舞い込み、そのおかげでついに、登山道初めの一歩目を高尾山で踏み出すことができました。登ってみると登り方の違いで、見える、聞こえる、感じる世界が変わることを知り、何だか人生が映しだされているなぁと思いました。


かつて高尾山の魅力を知らずに登っていた

高尾山といえば、新宿駅から電車一本で行ける上に、高尾山口駅降りたらすぐに登れるという利便性が高いことでも有名です。

この山に登るのは、実は人生2度目で、ずいぶん前に初めて高尾山に登ったときは、山のことを表面的にしか知らない、ただの登山客でした。だから古くから信仰の深い霊気満山という魅力もそんなに知らず、八百万の神々にも、天狗にも、たいしたご挨拶もせずズカズカと登り、山頂の見晴らしを楽しんで、お蕎麦を食べて下山する、という娯楽よりの登山でした。

今回はそうではなく人生を歩むように深く登ったことで、自然から受け取れる領域がぐっと広がり、見えている世界だけが全てではない、と感じる一日となりました。

登山中は自分の内と外を行ったり来たり

この日は、滝や川が流れる登山者向けのコースを登りました。木の根っこと土と石と泥濘で、足をぐねってしまいそうな、つまずいてしまいそうな、茶色いぐねぐね道。足元に気がとられて視界が狭まりそうになりながらも、木の幹や、いろんな形をした葉っぱや、垣間見える曇り空や、川のせせらぎや、烏の声や、土や風のにおいや、顔を撫でる冷たい風など、なるべく五感を働かせ外に意識を向けて歩きました。

山登りは基本的に一人作業で、意識が外に向いていないときは、だいたい自分の内側の声のボリュームが大きい。あんなことやこんなことを頭の中でおしゃべりして、ぐるぐるします。その内側のぐるぐるに気づいては、外側に意識を向け、内と外を行ったり来たりしながら登りました。その様子は街の暮らしとも同じです。

街と違うのは、五感をたっぷり働かせたこと。そしてそれを自然の中でしていくと、いつの間にか私に住み着く寄生虫のようなぐるぐるが、どんどん変わっていくような感覚になりました。街にいるとぐるぐる虫は増えやすいのに、山の中にいると自然が食べてくれて、ぐるぐる虫が減っていくような…。

そうして山登りを終えた頃には、ぐるぐる虫に精気を吸い取られて萎んだ私という風船が息を吹き返し、神聖な空気で満たされ丸く膨らんでパンパンした私になっていました。

ぐるぐる虫に遮られて波長がずれていた内に透明度が増し、外と限りなく一致するように、何気なく見ていた景色も鮮明に見えるし、一粒のキャラメルさえも美味しいぃと感じました。

自分の状態で受け取れるものが変わってくる

1度目もそれなりに自然によって感性が開いたと思いますが、透き通る感覚がどこか違います。今回は、観光のときみたいに写メを撮ることも、他の人とおしゃべりすることもしないで、自分の状態に意識を向けながら、外にも意識を向け、ひたすら意識的にカラダを使いました。

私の場合気を抜くと、内側にこもりやすく自閉ぎみになります。自分の世界だけで生きてしまう傾向があり、外側からやってくる絶好のパスやチャンスを純粋に受け取れなくなる自覚があるので、今回の登山では、なるべく能動的に外側へ意識を向け、自分の癖に流されないようにしました。そうして”内外”と意識を使っていくことで、何層にも覆われた鎧が剥がれていき、つるんとむけるような感じになりました。

すると、そこには私の知らない世界の、人には及ばない聖なる存在、八百万の神々がいらっしゃるような感覚が…。これは1度目の登山体験では触れられなかった領域です。

神々の世界はどこかファンタジックで、漫画の中では人のような造形で描かれるから、人の形をどこか浮かべてしまいがちだけど、実際そうじゃないし、見える、見えないの世界は人によって感じ方も定義も違う気もします。でも見えない世界を全く信じていない人はこの世にいないんじゃないかと私は思っているので、それをどんな領域で、どんな器で捉えるかの違いなんだと感じます。

かつての私は、神様からのメッセージを受け取るとか、運気が上がる神聖な事物とか、そういうのは本当にそうなのだろうか?と不思議に、時には疑い深く思っていた時期もありますが、それはそのときの環境、自分の状態ひとつで変わるんだな、と今回の体験を通じて抱いた感想です。

なぜ登るかが決まれば、どのように登るかがあらわれる?

今回登ろうと思ったのは、自分を開きたいと思ったからですが、”なぜ”が決まると、”どのように”も決まっていくのかな?と。目の前の山をとにかく一生懸命登る、だけでもすごい達成感だと思う(1回目はそんな感じ)けど、そこからさらに今回のように、理由を明確にできたら、方法があらわれて、それに紐づく意識的な山登りができて、そしたら取り巻く世界も変わって、自然から何倍にもなってエナジーが返ってきたーという喜びが味わえるのだと感じました。

同じ道を歩いているのに、そこに理由がちゃんと潜んでいるから、別世界のように全然違って見えていく。そんな風に人生も進めていけると、周囲の情報に必要以上に翻弄されにくくなって、”なぜ”につながった、自分の頭と心と身体から湧き出てくる基準で、辛辣な世界の中に身を置いてもエネルギーいっぱいで生きていけそう。

でも”なぜ”を見つける旅は、もしかしたら死ぬまで続くのかなぁ…と思ったりもするし、その問いをし続ける行為自体が生命力につながるのかなぁ…と思ったりもします。

登山後に食べた温泉まんじゅうと、温泉入ってからの上天ざるそばは、体に染み渡るほど美味しかったー。

★2024.2.15加筆修正



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