7月3日 終末キリスト教思想と来世的東アジア文化。
四方田犬彦さんの「人・中年に至る」をすこしずつ読んでいる。
P.48から引く。
「あらゆる恋愛に終わりを告げるのは性交である」
人、中年に到る
作者:四方田犬彦
白水社
四方田さんはこれは確かロラン・バルトの言葉であったはずとおっしゃり、出典がわからないと嘆かれる(海外滞在中の文だからというのもあり)。
これに対し、終わりこそが目的であるのが普通なキリスト教的終末論と(つまりは黙示録=人間世界の終わりが予定されている)、ごくごく自然に来世、輪廻転生という思想に知らず接している東アジア的世界観、でだいぶ感覚が違う、という指摘をされている。
これを見て思った。
よく日本人は非宗教的だ、といわれる。アンケートを取れば、”あなたは神を信じていますか”という問いへのNOの割合がとても(世界で抜きんでて)高いと言われる(まあ自己肯定の低さも話題になりますが)。
だがどこだったか(ドイツ??)では基本住民票(的なもの??)にあなたの宗教は、ととわれ、敢えて無宗教である、と届けないかぎり所属する宗派へのお布施?が収入から税金的に引かれてしまう、そんな国の宗教観(つまりは国から”あんたどの神信じてるの?”とまずは聞かれる世界)と、クリスマスでサンタクロースという”神”に接し、イエスの誕生もなんとなく寿ぎ(なにしろケーキ食べるんやから)、数日後初詣で柏手を打って5円をぶん投げている人々の宗教観を、同じようなアンケートで比べることが間違っているだろう。
雑な纏めながら、”成仏”は仏になると書く。そこでいう仏は、たんなる”死んだ人”という意味が強い感じがするが、だが菩薩は仏になる直前の"非仏”あるいは”前仏”であるというので、人と言ってもいいかもしれない(仏教学詳しくないので感覚です)。
八百万の神、といわれれば、まあそんなもんかいな、と思うし、その時の神には”物神”もいようから、そもそも信仰のモロ対象、ということとはすこしちがう気もする。
だが、我々の(まあ私の、というべきかもしれないが)神とはそんなものだ。サンタは聖人の”聖”だがわれわれはなんとなく”姓”であるような気さえしている(我々の呼びでいけば聖人はみんな”サンタさん”となるわけで)。八百万世界でいけば確かに神さんやな、という感じだ。
そこでは世界は循環する。末法の世とはいうが、消滅するという感じはうすい。ただ残念な世界、というだけだ。黙示録は、ないのだ(たぶんIN仏教)。
なんとなく死ねば生まれ変わるような、気がしている。まあ、バクテリヤになるかもだから嫌だが仕方がない、という感じで(個人の雑感です)。
そんな人がロラン・バウトの言葉を聞いてどうおもうか。ばくっと西洋では離婚が多いというが、真摯にこの世界の生をつい突き詰めてしまってのことではないだろうか。
信じてるか、と真正面から聞かれれば、聞かれたことがないのでとまどって”いいえ”と言っている。だが輪廻で成仏で八百万で、むしろ神はあたりまえすぎるので、今生ではこの生で金と健康と幸福といった現世利益を主に祈っておけ。
そういう世界に私たちはいるのではないだろうか。
(だが、それでも即物的なだけ、というわけではなく、どこか敬虔なこころを持っている気がします)