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11.20 言葉はファシストであり、創造の源でもある。

一期一会というものがあるが、一期一会の結果から導かれるものには積極的に対応することにしている(自分比)。

人との出会いは有限だ。そこから導かれるものは、そういうルートでなければ出会えない、という、これはゲームで言えばゲートのようなものでもある。

時間と場所がたまたまで永遠。

昨日はある豪華本と版画の展示で出会った方が近くで働いているということで(まあいわゆる接客業)行ってみて、その方から家から20歩!の飲み屋を紹介された。昼は喫茶店、昭和55年から営業されていて、現在3代目オーナーであるという。

そういう歴史との邂逅。なにかきっかけがないと出会えないもの。

2杯バーボンのお湯割りを飲んで、2時間で2000円。素晴らしい!

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今朝の体重65.4kg、体脂肪率GIFTの5%。特にトレーニングはしていないのだが??

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さて、言葉が本来は空である全であり無であるものに薄いベールを張り、文節となりそれを人は存在とみて過ごすことで言葉による文化が発生する。

だが生まれるとそういうことになっていることが「現実」であるということを疑う必要も疑う理由も思いつかないが故に当たり前として生きてゆく。

だが、龍樹は「そうだろうか」という。


なにもないところで、本来根源としてはなにかの粒子として分かれているが分かれていないものの、「一部としての全」にある我々や世界。

それをまずは理解せよ、という。


・・確かにそうだ。

だがそれからでてくるニヒリズム、そこに安住すべきなのか。

わかってしまった、あとはただ生きるだけ。


そう池田晶子さんはおっしゃった。

だが、池田さんは大学で龍樹を研究なさったが、「一度行って、還ってこられた。」。


龍樹の空のあとにくるもの。老子の恍惚たる創造のあいまいさ、に至る。


あいまいで、かりそめの文字や言葉の間によこたわる「芳醇」。

それを見逃してはもったいない、のだ。

(古代にはすごい思想家がいますね。そして人類はそれを「すごい」と思い、残してきた。そのこともまた素晴らしいですね)











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