日記4月6日(火) #日記 生まれてしまった。
今朝の体重65.3kg、体脂肪率12.3%でした。食事前。昨日朝は66kg、体脂肪率5%。体重下がったからよしとしますか。
いまAMAZON プライムでアンダーワールドシリーズを見ています。吸血鬼ものは好きなジャンルですので、単純に楽しんでいます。出演者、とくにガヤというか、吸血鬼のアジトで主人公をただボーッと見ている吸血鬼族の衣裳が、ゴチックで結構凝っているな、と好印象です。皆彫りが深く吸血鬼っぽいですし。。
生まれてしまった。
あとは、エゴ、依存、比較、承認欲求に気をつけて
餌場をなんとか確保しよう。
というのが生きることなのかな、と最近思っている。
エゴ、は生きるためのこれまでの先祖の智慧(明確化されているわけではないが)を本能、という形で伝えてくれる面もあるので、それはエゴではないか、という注意をしつつも、上手く付き合っていくべきだ。
だが、エゴはうそつきでもあるので、時に義務感や”ねばならない(いっしょかな?)という思いに乗せてやることを指示することがある。だが、それは”他の個体を蹴落として、自らのみが生き残るための戦略”でありすぎることがある。
動物として、よりよい子孫・種族を残すための乗り物(=つなぎ)としての個体としては、この”エゴ”の指令はおおむね正しい、といえるのだろう。
だが、”蹴落とす”がいまの人間のしぐさとしては、時にやりすぎ、ときに人間があたらしく人間用に築いてきた、そして築いてゆこうとしているルールに照らすと、やりすぎることがある、という意味だ。
依存、は生きるための目的を探しすぎると発生するようだ。丁度いい”目的”に見えるものがある時には、人はそれに依存する。例えば親子関係。小さいときは庇護を必要とする子供を、大人になっても庇護し支配する。子供は時に反発するが、その庇護が楽であればそのままそこにとどまる場合もある。これが相互依存だ。
だが永遠には続けられないし、続けるべきではない。親が年老いれば、子供の庇護はできなくなる。庇護され続けた子供は、ひとりで生きる能力に欠ける場合がある。
そこを見極めなければならない。
人間関係だけではない。酒やタバコ、ギャンブルやドラッグ、といったものに依存しすぎるとまずいことは、いうまでもない。恋愛やゲーム、というのも過度な依存は危険であろう。
比較、についてはこれも意識的に付き合うべきものだろう。全く必要がない、とは思わない。だが人との比較、とは人より自分が優れるべき、という基準。人のレベルが低ければ、ちょっと高いだけでもいい。人のレベルを下げてやれば、自分はこのままでもいい。
価値を絶対値で見られなくなる。
価値の絶対値を頭に置いて、自身が生きるための力を付けるための方便として、意識して比較する、というくらいがいいだろう。そしてある程度力がつけば、比較はやめて自身による絶対評価、それに切り替える。
そのためには自身で評価できるだけの意識と知見が、必要になるが。
承認欲求。これは上記の依存や比較と地続きの意識だ。重なっている部分も多い。
評価を自分ではなく他人においてしまうことの、質的なリスクと獲得困難性(獲得が自分でコントロールできないこと)が問題だ。
他人による承認は、安易であるとともに、甘美である。中毒性、依存性が高いのだ。
麻薬、と似ているかもしれない。離脱が、結構困難なのだ。
独りよがりに、ならぬように、自己で自己を承認する、というのがやはいいように、思っている。これは、けっこう、難しい。
最後の餌場確保。これが最難問だ。
どうしたらいいか、わからない、というか、究極の個別案件だ。
いまは、なかなかしんどいような気がしている。
働き場は、今後どんどんなくなっていく気もしている。なんとなくだが。
(結局、自分を見つめ続けるしか、ないのかもしれません・・)
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