6月9日 神秘学を受け入れられるかどうかの分岐点とは。グノーシス神話を思い出しながら考える。
神秘学に関心をもつことができるかできないかは、ひたすら、ビッグバンとは反対に、内なる世界が宇宙の初めに、外なる世界を生み出した、という観点が肯定できるかできないかにかかっています。
高橋巖 神秘学入門 p.75
私が神秘学に惹かれる理由を、ここで高橋先生は明確に示されている。
そう、そもそも一番始めの宇宙が生まれたときのことを考えたとき、はじめからある”空間”に宇宙が生まれたのであれば、その”空間”は宇宙と言えるのである。
つまり、そもそも一番始めに生まれたのは、”存在”でしかありえないのだ。
存在が存在しない、空間という概念がない”内的存在”からしか、始祖の外的空間が生まれるわけがないのだ。
そのことを考えると、内的空間のことをことさら人格神、西洋でイメージする髭の老人であると考える必要なく、ただ内的なものこそすべてを産んだ、”神”的機構ではある、シンプルに、と思うわけである。
で、その内的空間、内的存在というものは、内的であるのだからいつまでも、明確に眼前に、外的世界的に、提示されることはない。
あるいは”魂”的存在がわが肉体にあるのだとすると、それが死とともに肉体から離れて”黄昏に還る”ということがあるやもしれない、と思うわけだ。
個人的には内外合わせて”一”と言いたいところである。
いわば宇宙規模の母親が、もちろん眼に見えない内なる世界そのものとなって、みずからの思いを外なる一点に、爆発的なエネルギーで注ぎ込んだのです。これは逆転したビッグバンとは言わず、「流出」と言います。
ヌースとは、”内”ということに他なりません。能動ヌースは、内にとっての内のことであり、受動ヌースは、内にとっての外のことです。
高橋巖 神秘学入門 p.75、 p.76
この考え方に沿っていると認識しているグノーシス神話によると、外の世界はいわば「後からできたもの」で「内的な真の空間」のあるいは劣化コピー、という位置になるのかと思う。
なので、この世は不完全で、あるいは悪(劣化コピーという意味で)といってもいい、ということになるのかもしれない。
そしてこの世を産んだ「もの」は自らもまた「流出」後の存在であることを、知りようがないのだ。
なので、”悪”と端的に評されるわけだ。決してそのものが「邪悪」なのではない。
生まれがどうしようもない、ということになる。
そうすると生まれるのが「envy」であるのだろう。
どうしようもない、わが存在過程を「無かったものとして」、「僭王」=「神」と自称するもの、となりたくなる。
それが「envy]である。
仕方がないが、だが「悪」。
それこそが「民衆の仕事をする人」ことデミウルゴスであり、ヤルダバオートであるのだろう。
この世のあらゆるものは集団的無意識を共有している。それこそが古代人が”万物の共感”と呼んだものの基礎である。
C.G.ユング 自叙伝ー思い出・夢・思想 p.121
(妄言、申し訳ありません(;^ω^))